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ジャニーズ

      


ジャニーズ(Johnnys)とは、かつてジャニーズ事務所から最初にデビューを飾った日本のアイドルグループである。
1962年4月結成。 1967年12月31日解散 (11月20日解散説は誤り)。 別名義:THE JOHNNYS
ジャニーズは便宜上、「初代ジャニーズ」、「元祖ジャニーズ」と呼ばれることもある。

「ジャニーズ」という言葉は、ジャニーズ事務所の略称や、ジャニーズ事務所所属タレントの総称としても使用されるが、当項目ではアイドルグループとしての「ジャニーズ」について記述する。


 


メンバー

  • 飯野おさみ 

      いいの おさみ、本名:飯野修實 (読み同じ)、愛称:オチャミ、チャミ、イノちん。 イメージカラー:黒。
      1946年8月23日生まれ。愛知県渥美郡(後の田原市)生まれ、渋谷区幡ヶ谷育ち。 8人兄弟の末っ子 (兄4人、姉3人)。 身長:167cm。 東京都立農業高校 → 日本大学芸術学部演劇学科。 ダンスが最も上手いメンバーだった。
      また、生年月日を公表しているジャニーズ事務所在籍経験者(タレント)の中では、最も早くに生まれた人物。

  • 真家ひろみ (リーダー)

      まいえ ひろみ、本名:眞家弘敏 (まいえ ひろとし)、愛称:ヒロミ、マイエ。 イメージカラー:黄色。
      1946年11月1日 - 2000年3月6日。目黒区生まれ、渋谷区西原 → 杉並区上高井戸育ち。 3人兄弟の真ん中 (姉と弟)。 身長:173cm。 私立東京商業高校(後の東京学園高等学校。男子校) → 日本大学芸術学部文芸学科。 趣味:読書。 好きな作家:ヘルマン・ヘッセ。 トークが上手く、ステージでは進行役を務めることが多かった。 53歳没。

  • 中谷良 

      なかたに りょう、本名:中谷良三 (なかたに りょうぞう)、愛称:良ちゃん、良、良三。 イメージカラー:赤。
      1947年9月18日生まれ。渋谷区初台生まれ、同区代々木育ち。 4人兄弟の末っ子 (兄2人、姉1人)。 身長:170cm。 堀越高校 → 日本大学芸術学部。 趣味:ドラム。 父親は国会の自動車運転手だった。
      なお、中谷が堀越高校の芸能人生徒・第一号だとしている文献があるが、それは誤報。 堀越の芸能人第一号は田辺靖雄。

  • 青井輝彦 (1967年から「あおい輝彦」に改名)

      あおい てるひこ、本名:青井輝彦、愛称:アオイ、アオイ君、輝彦。 イメージカラー:青。
      1948年1月10日生まれ。杉並区生まれ、渋谷区初台 → 同区代々木育ち (東京都青ヶ島村出身という説は誤報)。 3人兄弟の真ん中 (姉1人、妹1人)。 身長:168cm。 日本大学鶴ヶ丘高校 → 日本大学芸術学部。

    4人とも渋谷区立幡代小学校、渋谷区立代々木中学校(通称:よよ中、よっ中)を卒業。 そして日本大学芸術学部に進学。

脱退メンバー

  • 長田晴夫 (後の安達明
      1948年9月4日 - 2011年5月20日。 62歳没。 福岡県北九州市八幡西区本城生まれ、千葉県育ち。
       
      (ジャニーズの面々と再会した際の記事。『月刊明星』 1964年12月号 「スター同士の秘められた友情」より)


概要

  • 1962年4月にグループを結成。(結成に至るまでの詳細は「ジャニーズ事務所の設立」を参照)
    名和プロダクションのタレント養成所の児童クラス「芸研ジャニーズ」でレッスンを受けながら、渡辺プロダクションとも業務提携し、同年8月4日にNHK『夢であいましょう』にて田辺靖雄が歌う『いつもの小道で』のバックコーラスとして芸能界デビュー。 更に同月よりフジテレビ『森永スパーク・ショー』にバックダンサーとして出演開始。

  • 1963年1月、芸研ジャニーズで一緒にレッスンしていた仲間・長田晴夫を加えた5名で、「日劇ウエスタン・カーニバル」に初出演。 伊東ゆかり(当時:伊藤ゆかり)の『ロコモーション』のバックダンサーを務める。 その後、長田はグループから脱退。事務所も移籍し、「安達明」の芸名でソロ歌手に。
       
        (左から、青井、飯野、長田)

  • やがて池袋の「ドラム」、新宿「ACB (アシベ)」、銀座「美松」などのジャズ喫茶にも出演するようになり、1日に5〜10回ものステージをこなした。 当時はまだ「アイドル」という言葉も無く、基本的に日本人歌手は直立不動か、せいぜいポップスを歌う人がステップを踏む程度の時代だった。 そんな中で、映画『ウエスト・サイド物語』に憧れてモダンダンスを踊りながら歌を歌うジャニーズの登場は、日本の芸能史において非常に画期的なことであった。 但し、日本人男性がステージでダンスをすること自体はジャニーズが元祖ではなく、伊藤道郎や「日劇ダンシングチーム」など無数の男性ダンサーが既に存在している。

  • 1963年、日本テレビ『味の素 ホイホイ・ミュージック・スクール』に木の実ナナのバックダンサーとしてレギュラー出演開始。 ジャニーズは既にいくつかのテレビ番組に出演していたにもかかわらず、この番組の場合は、最初の約1ヶ月間は“シルエット”でのバックダンサー出演だった。 照明をわざと暗くし、4人の姿はシルエットでしか見えないようにした結果、視聴者から「あれは誰だ?」という問い合わせが殺到。 そして話題になった所で、「この子たちは“ジャニーズ”です」と発表された。 これらは全てジャニー喜多川によるアイデアであり、この番組を機に、ジャニーズは一気にブレイクした。

  • 1963年9月29日放送のフジテレビ『森永スパーク・ショー』にて、初めてテレビで歌を披露する。 歌った楽曲はカスケーズの『悲しき雨音』。

  • 1964年11月5日、シングル『若い涙』でレコードデビュー。 以後、『太陽のあいつ』や『涙くんさようなら』などの代表曲を残す。

  • 1965年12月31日に放送された『第16回 NHK紅白歌合戦』に出場し、『マック・ザ・ナイフ』を披露。
    同曲は英語曲で、エラ・フィッツジェラルドのカバー。(元々はミュージカル『三文オペラ』の劇中歌『メッキー・メッサーのモリタート』) 歌い出しの前には、電報で寄せられたという石原裕次郎からの応援メッセージが読み上げられた。
    1961年の紅白歌合戦では雪村いづみも歌い、1963年3月には弘田三枝子もシングル『想い出の冬休み』のカップリングでカバーしたことがあるジャズ・ナンバーで、難しい楽曲ながら、リードパートのあおいと中谷はこれを無難にこなした。
    1996年には、少年隊もミュージカル『PLAYZONE ’96 RHYTHM』と、そのサントラCDにてカバーした曲。

  • 1966年春、オーストラリア旅行を経験。

  • 女性週刊誌『ヤングレディ』(1966年7月25日号、講談社)にて、真家ひろみと女優の高見理紗との交際が報じられる。

  • 1966年8月28日 21時30分、本格的なダンスレッスンをするために、羽田空港から日航機で3ヶ月の予定で渡米。 当時はアメリカ大陸への飛行機の直行便がまだ無かったため、経由地のハワイで一旦過ごし、30日にロサンゼルスに到着。 31日にディズニーランドを観光後、ロスの市街地から約15マイル南のガーデナにある白い家(ジャニー喜多川の実家。当時はジャニーの兄一家が居住)に下宿。
    翌9月になって、遅れて日本からやって来たジャニー喜多川がジャニーズの4人と合流。 以降、4人はミュージカルを鑑賞したり、マイク・カーブの協力を得ながらダンスやボーカルのレッスンに通った。 また、アメリカでは英語の習得も兼ねて近所の子供たちと野球をやって遊んでいたが、その子たちからは下の名前をもじって、ロミオ(真家ひろみ)、サミー(飯野おさみ)、ジョー(中谷良)、テリー(あおい輝彦)の愛称で呼ばれた。
    そんな中、チャールズ・ストラウスビング・クロスビーザ・モンキーズらと出会う貴重な体験をしたり、レコードプロデューサーのバリー・デ・ヴォーゾンとも偶然出会い、バリーがオーナーを務めるレコードレーベル「ヴァリアント・レコード (Valiant Records)」と契約する機会に恵まれる。 そのため、3ヶ月だった滞在予定を1ヶ月延長し、LPレコードの制作を始めた。 そして計16曲ものオリジナル曲をレコーディングを終え、プロモーションフィルムまで制作したものの、当時のアメリカでは白人による日系人への人種差別が色濃く、日本人がLPを出したとしても、やはり販売ルートが確保できないという現実に直面し、LPの発売が暗礁に乗り上げてしまった。 同時に、リーダーの真家が「グループを解散したい」とも言い出していた。 こうして、ジャニー喜多川とジャニーズは、1967年1月5日に日本へ帰国することとなった。 帰国の際には再びハワイを経由し、たまたまハワイに滞在していた石原裕次郎に迎えられ、共に過ごした。 なお、アメリカのテレビ番組『ハリウッド・パレス』のオーナーのニック・パノフからは、同年4月より番組のホストを務めてほしいと誘われてもいたが、中止となった。
    帰国後の1967年、ヴァリアント・レコードがワーナー・ブラザース・レコードに売却されたことがきっかけで、同年7月になって、『I Remember』、『Nothing Sacred』の2曲だけはシングルのA・B面として、アメリカで「THE JOHNNYS」名義でリリースされた。 (『I Remember』は後にハイ・ソサエティーが2ndアルバムでカバー。 少年隊もアルバム『PLAYZONE 2006 Change』にて、日本語詞に変えて『少年の想い出』の邦題でカバーしている。 『少年の想い出』バージョンはジャニーズJr.もコンサートでカバーしている)
    レコーディングした計16曲のマスターテープは全て消失。この世に現存する音源も、9曲のみである (曲目については こちら を参照)。 その9曲は、洋楽マニアの山下達郎がジャニー喜多川やメリー喜多川に願い出て音源を貰っており、2020年7月5日と12日の2週に渡って、ラジオ番組『山下達郎の楽天カード サンデー・ソングブック』(TOKYO FM)にて、9曲とも放送された。

      お蔵入りした楽曲 『Never My Love』 について

      ジャニーズがアメリカでレコーディングした楽曲の中に、『Never My Love』(あおい輝彦のリードボーカル曲。通称:ネバマイ)がある。

         

      これは「アドリシ・ブラザーズ (The Addrisi Brothers)」が作った楽曲。 一部では「アドリシ・ブラザーズが先に歌って発売したが全く売れずに眠っていた作品」と書かれた文献があるが、これは全くの誤報。 アドリシ・ブラザーズ自身の歌唱で初めてこの曲が発売されたのは、1972年の1stアルバム『We've Got To Get It On Again』 (Billboardでの最高位は137位)。 そしてシングルリリースは1977年12月 (「Billboard Hot 100」にて80位)。


      フランス盤
       
       スペイン盤
       
       イタリア盤

      なお、アドリシ・ブラザーズ自身のヒット曲としては、1972年の『We've Got To Get It On Again』があり、HIP HOPアーティスト「Action Bronson」の2011年の楽曲『Not Enough Words feat. Statik Selektah』にもサンプリングされている。

      『Never My Love』は、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、アメリカの人気ソフトロックバンド「アソシエイション (The Association)」によって1967年8月9日にリリースされた。 地味な曲調ながら、ボーンズ・ハウのプロデュースによって複雑なコーラスワークが繰り広げられるアソシエイションのバージョンは、翌10月には全米チャート(キャッシュボックス)で第1位の大ヒットを記録している (Billboard Hot 100では最高2位)。


      アメリカ版の楽譜
        
      日本盤(キングレコードのロンドンレーベル)

      日本盤 (東芝音楽工業)


      フランス盤
        
        イタリア盤
        
        スペイン盤


      ドイツ盤
        
        オランダ盤
        
        デンマーク盤

      その後、『Never My Love』は実に様々なアーティストによってカバーされ続けた。 代表的なものは、スウェーデン出身のロックバンド「ブルー・スウェード (Blue Swede)」によるカバー(1974年)で、「Billboard Hot 100」にて7位を記録した。


      アメリカ版の楽譜
        
        アメリカ盤 (表)
        
        アメリカ盤 (裏)


      日本盤
        
        フランス盤
        
        ドイツ盤

      ジャニーズが1966年にアメリカで録音した『Never My Love』はその後も発売されず、幻の音源となっているが、あおいがゲスト出演した『青春のポップス』(2001年5月13日、NHK総合)にて、ジャニーズの4人で歌う『Never My Love』の激レアな白黒映像が紹介された後、あおいがソロで『Never My Love』を歌唱した。
      続いて、あおいがゲスト出演した『徹子の部屋』(2013年3月19日、テレビ朝日)では、ジャニー喜多川が保管していたジャニーズ歌唱版の『Never My Love』の秘蔵音源が初公開された。
      他には、あおいが後にライブで歌唱した音源が、1976年1月25日リリースのライブアルバム『オンステージ』に収録されている。 また、フォーリーブスがアルバム『スーパー・プレゼント』(1972年8月21日)、野村義男がアルバム『Ukulele Slow Life 2』(2021年9月24日)にてカバー。 少年隊はコンサートや、ミュージカル『PLAYZONE ’88 カプリッチョ』の第2部「THE SHOW」(錦織ソロ)、ミュージカル『PLAYZONE ’96 RHYTHM』とそのサントラCD(同じく錦織ソロ)でカバー。 更にA.B.C-Zが5th DVDシングルとして2013年11月20日にリリースしている。 2019年3月29日に公開された『映画 少年たち』でも、ジャニーズJr.によって歌われた。
      ジャニーズ事務所のタレント以外の日本人アーティストでは、キャンディーズもカバーしている。 松崎しげるがボーカルのGSバンド「ミルク」も、1969年にライブでカバーした。

  • 1967年1月5日に日本へ帰国。 同年4月にジャニーズにとって最も有名な代表曲となるシングル『太陽のあいつ』をリリース。 同年6月〜7月には、大阪フェスティバルホールで10日間、ミュージカル『いつか何処かで 〜 フォーリーブス物語』を上演。 その後シングルレコードを2枚リリース。

  • 1967年11月20日、渋谷公会堂にて解散コンサートを開催。 このコンサートは3部構成で行われ、後輩グループのフォーリーブスも参加。 第1部には「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」や「ザ・スパイダース」も友情出演した。 なお、ブルー・コメッツはジャニーズのバックバンドを1年ほどやっていた時期がある。

  • 同年11月27日、日比谷のレストランで解散についてのインタビュー取材を受ける。 (週刊誌『女性自身』1967年12月11日号に小さくカラー掲載)

  • 同年12月31日、日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にて「さよならジャニーズ・ショー ジャニーズ解散式」を放送し、同日付で解散した。 (同年11月20日の渋谷公会堂での解散コンサートをもって解散したという説は誤り)
    なお、ジャニーズの当時のファンクラブは有料(入会金150円、年会費100円)のクラブだったが、ジャニーズが解散する際、入って間もない新しい会員への返金対応は無く、そのまま自動的に全員、フォーリーブスのファンクラブ会員へと移行させられた。

  • 解散から2年後の1969年12月13日、日本劇場で行われた「オールスター・歌の祭典」にて、1日限りで「ジャニーズ」が再結成された。

  • 2023年10月、ジャニー喜多川の性的児童虐待問題を受け、浅草の「マルベル堂」が自主規制により、性犯罪者「ジャニー喜多川」を想起させるグループ名だとしてジャニーズの生写真のネット上での販売をすべて禁止にする。[1]


主な出演作品

※ ソロ出演作については各メンバーの項目を参照。

バラエティ番組

  • 夢であいましょう
      (1962年8月4日 - 1965年9月11日、この内1964年4月11日〜1965年3月27日はレギュラー出演、NHK総合)
  • 森永スパーク・ショー (1962年8月 - 1963年9月29日、フジテレビ)
  • シャボン玉ホリデー (1962年 - 1967年、日本テレビ)
  • 味の素 ホイホイ・ミュージック・スクール (1963年 - 1965年9月25日、日本テレビ)
      木の実ナナのバックダンサーとしてレギュラー出演。
      『あなた出番です!』や『スター誕生!』の原点となった元祖オーディション番組。
      映画『やぶにらみニッポン』(1963年12月1日、東宝)の中で、当番組の様子を少しだけ観ることが出来る。
  • 夢をそだてよう (1963年11月7日 - 1964年4月16日、日本テレビ)
  • 明日があるさ (1964年4月27日 - 11月4日、日本テレビ)
      第1回ではスリー・ファンキーズの3期メンバーと共演。
  • 若さとリズム (1965年10月16日 - 1966年4月2日、NHK総合) トーク無しの音楽劇番組
       
  • ロッテ 歌のアルバム (TBS)
  • ジャニーズ ナインショウ (1965年10月30日 - 1966年4月16日、日本テレビ)
      毎週土曜 21時から30分。 プラチナ萬年筆の一社提供。
        
  • 第16回 NHK紅白歌合戦 (1965年12月31日、NHK総合)
  • ジャニーズ セブンショウ (1966年4月22日 - 9月30日、日本テレビ)
      毎週金曜 19時から30分。 プラチナ萬年筆の一社提供。
  • ビクター 歌うバラエティ (1966年、TBS)
  • エド・サリヴァン・ショー (1966年、アメリカ・CBS)
  • ハリウッド・パレス (1966年、アメリカ・ABCテレビ)
  • プラチナゴールデンショー (1967年、日本テレビ) ゲスト出演
      日曜・夜7時から30分。 プラチナ萬年筆の一社提供。
      同年12月31日には「さよならジャニーズ・ショー ジャニーズ解散式」を放送。
  • マイ・チャンネル! 第12回 「ジャニーズで行こう!」
      (1967年3月22日、TBS。製作局は朝日放送。企画:澤田隆治。収録日:同年3月14日&15日) 13曲を披露
  • 音楽の花ひらく (1967年4月5日 - 11月8日、NHK総合。番組自体は12月27日までの全32回) 三橋達也、越路吹雪と共に司会
  • シオノギ・ミュージックフェア ’67 (1967年12月18日、フジテレビ)
      飯野と中谷の2名が、上月晃、木の実ナナと共にゲスト出演。
  • 九ちゃんの元気いっぱい夏休み (1982年7月31日、TBS)
      ジャニーズの元メンバーが再集結したのか、それとも1960年代当時の映像での出演なのか、はたまた1960年代当時にお蔵入りになっていた番組が1982年になってようやく放送されたのか、詳細は不明。

テレビドラマ

連続ドラマ

  • てなもんや三度笠 (ABCテレビ)
    • 第104話 「岡山の団子」 (1964年4月26日)
    • 第178話 「七尾軍艦所」 (1965年9月26日)
    • 第274話 「江尻の野心家」 (1967年7月30日)
  • 太陽のあいつ (1967年6月22日、TBS)
      第9話「スタントカー大混乱 ! !」に、スタントマン志望の若者達役でゲスト出演。 役名は、青井 (輝夫役)、飯野 (修役)、中谷 (良一役)、真家 (弘役)。 ドラマ主題歌『太陽のあいつ』もジャニーズが歌唱。

単発ドラマ

  • へそまがりに突撃! (1965年7月3日、日本テレビ・日産スター劇場、原作:藤島泰輔
  • おもろい男 (1966年5月21日、NHK総合)

映画

  • 下町の太陽 (1963年4月18日、松竹)
  • やぶにらみニッポン (1963年12月1日、東宝)
      “日本テレビ『味の素 ホイホイ・ミュージック・スクール』に出演する木の実ナナのバックダンサー役”としてエキストラ出演
  • あの雲に歌おう (1965年1月15日、東映)
      真家 - 冬木役、飯野 - 夏目役、中谷 - 秋山役、あおい - 春田役。 劇中ではジャニーズのデビュー曲『若い涙』も歌唱。 スリー・ファンキーズの長沢純と共演。
  • 青春大統領 (1966年4月27日、日活。主演:石原裕次郎。振付:山田卓) [1]
      当初のタイトルは『力をこめて手をにぎる時』だった。 また、当作品はB5サイズが四つ折りになった白黒のプレスシートは存在するが、パンフレットの制作・販売はされなかった。 ジャニーズのバックバンド「ジャニーズ・ジュニア」と、松下公次(後の北公次)も出演。 1999年6月25日にVHSビデオ化、2019年5月30日にDVD化。
        
        
  • クレージー黄金作戦 (1967年4月29日、東宝)
      ザ・ピーナッツ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとの競演で『ウナ・セラ・ディ東京』を披露。 振付:小井戸秀宅。
  • 君は恋人 (1967年11月3日、日活) [2][3]
      劇中歌でシングル『いつか何処かで』を披露。

舞台

  • 焔のカーブ
      (1965年4月3日 - 29日、日生劇場、作・演出・作詞:石原慎太郎、音楽:中村八大、作詞:谷川俊太郎 & 岩谷時子、振付:山田卓) ジャニーズの4人はカミナリ族役
  • 夏の踊り 〜四つの約束〜 / 喜劇・青春大騒動 (1965年8月1日 - 26日、梅田コマ・スタジアム)
  • 宝島 (1966年1月2日 - 27日、日生劇場)
      原作:ロバート・ルイス・スチーブンソン、脚本・作詞:石原慎太郎、演出:石原慎太郎 & 鈴木敬介、音楽:中村八大。
  • いつか何処かで 〜 フォーリーブス物語
      (1967年6月〜7月に10日間、大阪フェスティバルホール、脚本:ジャニー喜多川、演出&振付:山田卓、舞台監督:金一浩司、主催:民音)
      木の実ナナと共演。 あおい輝彦は1人2役を演じ、その内の一つは「ジャニー喜多川役」だった。 この作品は、1970年12月〜1971年1月にフォーリーブス主演で、『素足でかける時』のタイトルで再演された。

主なステージ

  • 第19回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1963年1月14日 - 21日、日本劇場)
  • 第20回 日劇ウエスタン・カーニバル (1963年5月5日 - 12日、日本劇場)
  • 第21回 日劇ウエスタン・カーニバル (1963年9月2日 - 8日、日本劇場)
  • 第22回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1964年1月14日 - 21日、日本劇場)
  • 第23回 日劇ウエスタン・カーニバル (1964年5月5日 - 12日、日本劇場)
  • 第24回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 ペギー・マーチがやってきた (1964年8月26日 - 9月1日、日本劇場)
  • 第25回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1965年1月14日 - 21日、日本劇場)
  • 第26回 日劇ウエスタン・カーニバル (1965年5月5日 - 12日、日本劇場)
  • 第27回 日劇ウエスタン・カーニバル (1965年8月28日 - 9月3日、日本劇場)
  • ザ・ピーナッツのショー (1965年9月、梅田コマ・スタジアム)
  • ジャニーズ・リサイタル (1965年10月31日、日生劇場、1日3回公演、2部構成)
      当初の予定タイトルは「ジャニーズ ’65」だった。 構成:真家ひろみ、演出:青井輝彦、振付:飯野おさみ、監修:中谷良。
  • 石原裕次郎 芸能生活10周年記念リサイタル (1965年11月6日:横浜文化体育館、8日&9日:渋谷公会堂) 特別出演
  • ジャニーズ・ショウ (1965年12月22日 - 24日、日本劇場)
  • 第28回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1966年1月15日 - 21日、日本劇場)
  • 第29回 日劇ウエスタン・カーニバル (1966年5月5日 - 12日、日本劇場)
  • 行ってらっしゃいジャニーズショー
      1966年8月19日&20日:大阪厚生年金文化ホール、21日:渋谷公会堂。
      渋谷公会堂での模様は、TBSテレビ『ビクター 歌うバラエティ』で放送された他、アルバム『ジャニーズとアメリカ旅行』にも収録されている。
  • 第30回 日劇ウエスタン・カーニバル (1966年8月27日、日本劇場)
  • 第31回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1967年1月21日に特別出演、日本劇場)
  • 第33回 日劇ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日、日本劇場)
  • ピーナッツ・ホリディ 〜 ジャニーズと共に! (1967年9月2日 - 8日、日本劇場)
  • さよならジャニーズ・ショー (1967年11月20日、渋谷公会堂)
      同年12月31日に日本テレビ『プラチナゴールデンショー』枠にてテレビ放送。
  • オールスター・歌の祭典 (1969年12月13日、日本劇場) 1日限りの再結成ステージ
  • あおい輝彦 ラブリー・コンサート (1976年10月4日、中野サンプラザホール)
      飯野おさみ、中谷良、北公次、JJSがゲスト出演。

スチル広告

  • 東亜石油 「ガソリンはオストリッチ」
  • プラチナ万年筆
  • ヤシカカメラ
  • 不二家 「ネクター」 (1966年)

ラジオ

  • 電話リクエスト ハローポップス (1967年夏、文化放送。司会:土居まさる)
      この時のスタジオの観客には、中学3年生の山下達郎が居た。
  • 他多数

関連ラジオ

  • 山下達郎の楽天カード サンデー・ソングブック (2020年7月5日&12日、TOKYO FM)
      「初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画」と題し、ジャニーズが1966年にロサンゼルスでレコーディングした音源16曲の内、この世に現存する全9曲を放送。 元ジャニーズのメンバーの出演は無し。


ディスコグラフィ

※ 飯野、中谷、あおいのソロ作品については、それぞれの項目を参照。

シングル

  • 若い涙 c/w ぼくの手袋破れてる (1964年11月5日)
      A面曲はNHK『夢であいましょう』8月の歌。
  • 若い夜 c/w 若いんだもん (1965年5月)
  • 焔のカーブ c/w ぼくらのでっかい袋 (1965年6月)
      両曲とも作詞:石原慎太郎、演奏:ザ・スパイダース。
  • ガール・ハッピィ c/w チキン・オブ・ザ・シー (1965年6月5日)
      両A面シングル。 演奏は両曲とも「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」。 『ガール・ハッピィ』の原曲は、同年3月リリースのエルヴィス・プレスリー。 『チキン・オブ・ザ・シー』は「海の臆病者 = 金槌」を歌った曲で、原曲は1964年にアメリカ西海岸の3人組ボーカルグループ・The Go-Go's( ’80年代のガールバンドとは同名異グループ)がリリースした『(They Call Him) Chicken Of The Sea』。
      当シングルは2種類のジャケットが存在する。 初回プレス分は背景が黄色の4面ジャケットで、「スイム」の踊り方の解説付き。 再プレス分以降は背景が白色で、衣装もポーズも違う通常の2面ジャケットとなった。 初回プレス分はジャケット右上のレコード番号の部分を切り取ってハガキに貼って応募することで、水着が2,000名に当たる懸賞プレゼントの案内も記載されていたため、締切日以降の再プレス分からは、ジャケットを刷新する必要があった。 なお、白ジャケットの方が市場に出回っている数が圧倒的に少ないため、希少価値がある。
       
       
  • 栄光のマーチ c/w ぼくの瞳に君がいる (1965年10月)
      A面曲の原曲は『キスカ・マーチ』。
  • 君が若者なら c/w ひとりぼっちになったとき (1966年1月)
      付録としてカレンダー(半年分)が封入されていた。 B面曲は中谷良のソロ名義作品で、後に後輩の北公次豊川誕がカバーした。
  • 泣いていたジェニー c/w 涙くんさようなら (1966年4月)
      B面曲はジョニー・ティロットソン、坂本九、和田弘とマヒナスターズとの競作。 その後も数十人単位のアーティストたちがカバー。 Hey! Say! JUMPの中島裕翔もカバーしている。
  • バットマン c/w 行け!バットマン (1966年5月30日)
      両曲とも演奏は「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」で、フジテレビのドラマ『バットマン』のテーマソング。
  • おーい わーい チチチ c/w もう7時だよ (1966年8月)
      A面曲は日本テレビの同名テレビドラマの主題歌。 B面曲は中谷良がリードボーカル、他のメンバーはコーラス。
  • 霧の夜の哀愁 c/w 若者の帽子 (1966年10月、SV-476)
      ジャニーズが長期渡米して日本に居ない最中にリリース。
      A面曲は青井輝彦がリードボーカル、他のメンバーはコーラス。 B面曲は飯野おさみがリードボーカル、他のメンバーはコーラス。
  • 時計をとめて c/w 淋しさはどこから (1966年10月、SV-490。 A面曲は青井輝彦ソロ名義
      ジャニーズが長期渡米して日本に居ない最中にリリース。
      両曲ともフォーリーブスがアルバムにてカバー (『時計をとめて』は青山孝のソロカバー)。 A面の原曲は、スペイン語曲の『El Reloj (時計)』で、1957年にメキシコのバンド「ロス・トレス・カバジェロス」がリリースして大ヒットしたラテンの名曲。 あおい輝彦、青山孝以外にも、菅原洋一、アルゼンチン出身歌手のグラシェラ・スサーナ、倍賞美津子、布施明、そしてジャニーズJr.時代の平野紫耀など、他にも数多くのアーティストがカバーしている。 なお、日本のサイケデリック・ロックバンド「ジャックス」が1968年にリリースした『時計をとめて』は同名異曲。
  • 太陽のあいつ c/w ロンサムガール (1967年4月)
      特別付録としてジャニーズの栞セットが付いていた。 A面曲はTBSの同名テレビドラマの主題歌。 なお、仲村知夏が1988年6月21日にリリースした『太陽のあいつ』は同名異曲。
  • いつか何処かで c/w 素敵な恋人 (1967年9月10日)
      A面曲は、同年6月〜7月のジャニーズ主演ミュージカル『いつか何処かで 〜 フォーリーブス物語』の劇中歌、および同年11月3日公開の日活映画『君は恋人』の挿入歌。 B面曲は中谷良がリードボーカル、他のメンバーはコーラス。
  • 若い日本の歌 c/w 日本の朝 (1967年10月)
      両A面シングル。 両曲とも第22回芸術祭参加作品で、作詞:石原慎太郎。

    この他、1965年の夏に吉永小百合が、「代々木中学の後輩だったジャニーズの4人とデュエットしてレコードを出したい」と企画。 『月刊明星』(1965年9月号)にて、同年10月にレコーディングが行われる予定であると発表されたが、結局実現はしなかった。

US盤シングル

  • I Remember c/w Nothing Sacred
      (1966年のロサンゼルス録音。1967年7月発売。ワーナー・ブラザース・レコード) 「THE JOHNNYS」名義
      A面曲は後にハイ・ソサエティーが2ndアルバムでカバー。 少年隊もアルバム『PLAYZONE 2006 Change』にて、日本語詞に変えて『少年の想い出』の邦題でカバーしている。 『少年の想い出』バージョンはジャニーズJr.もコンサートでカバーしている。
         

4曲入りEP

  • 流行歌コンパクト盤 「若い涙」 (1965年、SVC-106)
      収録曲:若い涙 / ぼくの手袋破れてる / 若い夜 / 若いんだもん
  • 流行歌ステレオ・コンパクト盤 「ガール・ハッピー」 (1965年、SVC-122)
      収録曲:ガール・ハッピー / チキン・オブ・ザ・シー / 栄光のマーチ / 焔のカーブ
  • 流行歌名曲シリーズ 「泣いていたジェニー」 (1966年、SVC-141)
      収録曲:泣いていたジェニー / 涙くんさようなら / 君が若者なら / ひとりぼっちになったとき
      ジャケット写真は、シングル盤『泣いていたジェニー』のジャケット写真の衣装に黒いトレンチコートを上から羽織っただけのものであり、同日に同じ広場にて撮影された。

ライブアルバム

  • ジャニーズとアメリカ旅行 EXCITING JOHNNYS SHOW!
      〜ジャニーズ・ショー実況録音〜
      (1966年11月。ジャニーズが長期渡米して日本に居ない最中にリリース。 同年8月21日に渋谷公会堂で行われた「行ってらっしゃいジャニーズショー」の模様を収録。 演奏:山屋清とニュー・ジャズ・オーケストラ)

       

ベストアルバム

  • ジャニーズ・ステレオ・ハイライト 第1集
      (1966年。6thシングルまでのA・B面を収録したベスト盤。全12曲)

オムニバスアルバム

  • ゴールデン・ヒット・ソング 第21集 −流行歌ベスト・ヒット14−(1967年)
      『いつか何処かで』を収録。
  • 想い出の青春歌謡全集 3 「雨の中の二人/涙くんさよなら」 (1989年)
      クレジットは『涙くんさよなら』になってしまっているが、『涙くんさようなら』を収録。
  • 恋すれど廃盤 ベストコレクション Disc4 芽ばえ (1992年3月26日)
      『太陽のあいつ』を収録。
  • 浜口庫之助フォーエバー:バラが咲いた・夕陽が泣いている 〜 永遠の60's J-POPS (2000年10月25日)
      『泣いていたジェニー』、『涙くんさよなら』を収録。
  • 青春歌年鑑 ’65 BEST30 (2000年11月22日、2枚組) 『チキン・オブ・ザ・シー』を収録
  • 60's TVヒッツ・コレクション 〜キイハンター〜 (2001年12月19日)
      『バットマン』、『太陽のあいつ』を収録。
  • 青春歌年鑑 ’65 BEST30 (2002年11月27日) 『チキン・オブ・ザ・シー』を収録
  • 夢であいましょう 今月のうた 大全 [2CD+DVD] (2013年1月30日) 『若い涙』を収録
  • 映画 『太平洋奇跡の作戦 キスカ』 オリジナル・サウンドトラック (2021年5月19日)
      映画本篇で使用された曲ではないが、ボーナストラックとして『栄光のマーチ』を収録。

ソノシート

  • Little HONDA (1964年)
      原曲はビーチ・ボーイズ(Beach Boys)が1964年4月に発表したもので、同年夏にホンデルス(Hondells)がカバーしたことで大ヒットした。 このヒットを受け、日本でも同年に本田技研が「ベンリイ」や「カブ」といったバイクのプロモーションとして非売品ソノシートを配布。 1曲目がビーチ・ボーイズのオリジナル、2曲目がジャニーズのカバー・バージョン。 ジャニーズの方の演奏は「寺内タケシとブルージーンズ」、日本語訳詞:安井かずみ、編曲:宮川泰。
  • 青春No.1 (1965年、SB-104)
      収録曲:若い涙 / 若い夜 / 焔のカーブ / ぼくの手袋破れてる。 ブックレット付き。
  • ハロー・ジャニーズ (1965年末、SB-306)
      収録曲:ぼくの瞳に君がいる / 栄光のマーチ / チキン・オブ・ザ・シー / ガール・ハッピィ。 ブックレット付き。
  • 女友シート ジャニーズのないしょ話公開 (雑誌 『女学生の友』 1966年4月号特別付録)
  • バットマンのテーマ (1966年、ビクター出版)
      ブックレットに収録されているカラー漫画『バットマン ダイヤモンド強奪計画』を声優陣が演じるドラマソノシート。 物語の冒頭で、ジャニーズが歌う『バットマンのテーマ』が流れる。 曲のタイトルは異なっているが、『バットマンのテーマ』は、1966年5月30日発売のシングル『バットマン c/w 行け!バットマン』のA面曲と同曲。

レコード化されていない楽曲

  • 悲しき雨音 (中谷のソロで歌唱する場合もあった。原曲はカスケーズ)
  • おやじ万歳 (作詞:永六輔、作曲:いずみたく)
  • 試験はいやだ (作詞:藤島泰輔、作曲:いずみたく。後に江木俊夫がカバー)
  • 時計がきざむ夜
  • ひとつ隣りのうしろへ3つ (作詞:青井輝彦。後におりも政夫がカバー)
  • あの娘の名前
  • 別れた人
  • ぼくらの夢はミュージカル
  • ジャニーズです。
  • 僕らはジャニーズ
  • 恋のパームスプリングス
  • ルート66 (飯野ソロ)
  • ラヴ (真家ソロ)
  • ローズ・マリー (青井ソロ)
  • Never My Love
      作詞・作曲:アドリシ・ブラザーズ。 青井輝彦のリードボーカル曲。 1966年にロサンゼルスで録音。 この曲の詳細については こちら の項目を参照。
  • Autumn Afternoon
      作詞・作曲:アドリシ・ブラザーズ。 1966年にロサンゼルスで録音。 アレンジャーはペリー・ボトキン・ジュニアの可能性があると見られている。
      1967年にテッド・ニーリー率いるテディー・ニーリー・ファイブの歌唱で発売。 アソシエイションも1967年に録音していたが、2011年になってアソシエイションのリマスタリングアルバムのボーナストラックとして発売。
  • The Visit (She Was Here)
      1966年にロサンゼルスで録音。 1967年にザ・サークル (The Cyrkle) の歌唱で発売。
  • That's When Happens (作者不明。1966年にロサンゼルスで録音)
  • Tell Her I Love Her (作者不明。1966年にロサンゼルスで録音)
  • Love's Breakin' Thru (作者不明。1966年にロサンゼルスで録音)
  • You're Near Me (作者不明。1966年にロサンゼルスで録音)
  • 愛しちゃだめ
      「あの時から、君が好きだよ、だーめ、愛しちゃだめ」という歌詞だった。
  • 君にこの歌を
      ジャニーズがミュージカル『いつか何処かで 〜 フォーリーブス物語』の中で歌っていた曲。 その後、フォーリーブスが1969年11月21日にシングルとしてカバーした。フォーリーブスはこの曲を、ミュージカル『少年たち』のラストシーンや、1978年の解散コンサートのラストナンバーなどで歌った。 更に、たのきんトリオ少年隊ジャニーズJr.らによっても歌い継がれている。
  • アンナ (原曲:アーサー・アレキサンダー)
  • ア・ハードデイズ・ナイト (原曲:ビートルズ)
  • クール
  • セプテンバー・ソング (原曲:エラ・フィッツジェラルド)
  • どじょっこふなっこ
  • いとしのクレメンタイン (原曲:ビング・クロスビー)
  • I Love Paris (原曲:Lilo)
  • 他多数・・・


書籍

※ 各メンバー個人に関する書籍は、それぞれの項目を参照。

写真集

  • ジャニーズ ’65 (1965年10月、定価:500円、縦 18.5cm×横 19.5p)

楽譜

  • 若い夜・僕のガールフレンド (1965年、ビクター出版、定価:100円)
      ジャニーズの2ndシングル『若い夜』の楽譜を掲載。 松島アキラのシングル『僕のガールフレンド』との共同掲載だが、表紙はジャニーズの白黒写真が使われた。

DVD付きマガジン

  • DVDコレクション 石原裕次郎シアター 50号 『青春大統領』
      (2019年5月30日、朝日新聞出版、映画DVD付) あおいのインタビュー「裕次郎とわたし」も掲載

参考書籍

  • 週刊平凡 (1964年7月2日号、平凡出版)
      「おしゃべりジャーナル 育ちがよくてマナーがよくて/ジャニーズ」
  • 週刊明星 (1964年7月5日号、集英社) 「特報 ジャニーズ やむを得なければ解散」
  • 週刊明星 (1964年9月27日号、集英社) 「ジャニーズはどうなる!?」
  • ミュージック・ライフ (1964年11月号、新興音楽出版社)
      「ジャニーズの若い涙/この人をルポしよう」
  • 平凡 (1965年3月号、平凡出版) 絵物語「四つの夢に乾杯」
  • 週刊サンケイ (1965年3月29日号、産業経済新聞社) 「ジャニーズ騒動 “ジャニーズ”売り出しのかげに」
  • アサヒグラフ (1965年5月21日号、朝日新聞社) ジャニーズの記事が4頁
  • マドモアゼル (1965年8月号、小学館) 「特集 歌って踊ってカッコいいジャニーズ百科」(14頁)
  • マドモアゼル (1965年11月号、小学館) 作家の平岩弓枝によるジャニーズへのインタビュー記事 「若さの魅力ジャニーズ」
  • 女性自身 (1967年9月25日号、光文社)
      「ジャニーズをめぐる“同性愛”裁判 東京地裁法廷で暴露された4人のプライバシー」
  • ヤングレディ (1967年11月20日号、講談社) 「特報 再出発か、分裂か? ジャニーズがいま重大な岐路に!」
  • タレント帝国 芸能プロの内幕 (竹中労 著、1968年7月、現代書房) 「ジャニーズ解散・始末記」
      ジャニー喜多川の性的児童虐待について言及した最初の単行本。 後に初代ジャニーズを管理していた渡辺プロダクションの渡邊美佐の圧力によって販売停止された。
  • 女学生の友 (1968年8月号、小学館) あおい輝彦の手記「今だから語る ジャニーズ解散の真相!」
  • 女性自身 (1968年10月21日号、光文社) 「同性愛裁判に四年ぶりで結論!」


初代ジャニーズを演じたアイドル

  • A.B.C-Z
      初代ジャニーズの結成から解散までを描いたミュージカル 『ABC座 ジャニーズ伝説』シリーズ(通称:ジャニ伝)にて、五関晃一、塚田僚一、河合郁人、橋本良亮の4名がジャニーズを演じた。 残りのメンバー・戸塚祥太はジャニー喜多川を演じた。
  • Travis Japan
      テレビドラマ『トットちゃん!』の第47話(2017年12月5日、テレビ朝日)にて、七五三掛龍也、吉澤閑也、中村海人、宮近海斗の4名がジャニーズを演じた。 黒柳徹子が司会の『夢であいましょう』にジャニーズが出演するシーンとして、デビュー曲『若い涙』を、映画『あの雲に歌おう』出演時の衣装と振り付けで披露。


外部リンク








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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