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北公次

        


北 公次(きた こうじ、本名&旧芸名:松下公次、1949年1月20日 - 2012年2月22日)は、和歌山県田辺市出身の歌手。 1970年代を代表する男性アイドルグループ「フォーリーブス」のリーダーとして活躍した。
フォーリーブスが解散(1978年)するまでは、所属事務所の意向で他のメンバーとの年齢差を縮めるために生年を1951年として2歳若く詐称。
身長:165cm、体重:52kg、足:25cm。 血液型:A型。
田辺市立田辺第二小学校、同市立東陽中学校卒業。
3児の父親 (前妻との間に男児1人と女児1人、後妻との間に女児1人)。 63歳没。




所属事務所

  1. ジャニーズ事務所 (1965年1月 - 1978年8月31日)
  2. 第一プロダクション (活動を始める前に退所)
  3. 富士映像 (1979年 - 1981年。 この内、1979年~1980年は富士映像と提携していた沢竜二の劇団「竜の会」にも所属)
  4. NAC (エヌ・エー・シー。1981年 - 1982年)
  5. 三船プロダクション (1982年 - )
  6. データハウス (出版社。1988年 - 1989年)
  7. 北公次事務所 (個人事務所。1989年 - 1990年)
  8. OFFICE KOJI (個人事務所。1990年 - )
  9. エフエンタープライズ (再結成後のフォーリーブス活動時の事務所)
  10. OFFICE-REN (個人事務所。2007年1月1日設立)


ジャニーズ時代の参加ユニット


その後の参加ユニット



来歴

  • 和歌山市でも一、二番を競った大きな菓子問屋「清定せいてい菓子株式会社」の社長・松下清吉(1914年3月31日生まれ)の次男として生まれる。 そのため、当初は同市神子浜みこのはまの大きな家に住む裕福な家庭だったが、北が小学校2年生の時、10年続いた父の会社が負債で倒産。 更に父は自転車の転倒で怪我を負い、約6ヶ月の自宅療養を余儀なくされた。 家は一気に貧乏暮らしとなり、近所の東本町の小さな家に転居 (この土地の町名は後に湊→東陽の順で変更)。 母・いわゑ(「ゆわゑ」と書かれた資料は誤り。1919年3月29日生まれ)もボタン工場にパートに出なければならなくなった。 一年後に父は「丸清まるせい食品株式会社」を設立したが、3年後に再び倒産し、その後は青果物の卸しをやっていた。
    北が中学一年の時には母が胆石で倒れ、3回の手術と一ヶ月の入院を必要とした。 そのため、北も近所の雪印牛乳で牛乳配達、紀伊民報で新聞配達、それに朝の早い豆腐屋の手伝い(時給100円)などをした。

  • 1964年3月、中学校を卒業。 将来は外国航路の船員になることを夢見ていた北だったが、家庭の厳しい経済事情から、中学卒業後は名古屋の玩具問屋に、中学の同級生3人と共に集団就職。 しかし3ヶ月後、兄が高校を中退して家出をし、大阪方面に消息を絶ったことを知り、北も兄を捜し求めるためにすぐに大阪へと移る。 そして、寿司屋の住み込み店員の募集広告を見て働き始めるも、職場に馴染めずに一週間で退職し、故郷・田辺の先輩が働いていた鉄工製作所(大手家電・鉄工メーカーの孫請け工場)の住み込み工員となった。

  • 兄の消息が分からぬまま働いていたある日、休憩時間に工場の食堂にあるテレビで初めて、歌って踊る「ジャニーズ」の姿を観て、「俺なら得意のアクロバットを駆使してもっと人気スターになれる」と確信し、 きっかけを求めて、当時大阪・道頓堀にあった音楽喫茶「ナンバ一番」に通うようになる。 また、北はこの時期に大阪の映画館でリバイバル上映されていた『ウエスト・サイド物語』も観に行っている。
    1964年の暮れ、ナンバ一番で男性アイドルコーラスグループ「スリーファンキーズ」のステージを鑑賞した際、楽屋をうろついていると、スリーファンキーズのバックバンド「ワゴンスターズ」のメンバーから、「そんなに音楽が好きなら俺たちのボーヤ(バンドボーイ)してみるか?」と声をかけられる。 すぐに応じた北はバンドの帰京に合わせて、工場から夜逃げ同然で、当時開通したばかりの新幹線で一緒に上京した。

  • 1ヶ月後の翌1965年1月14日~21日に日本劇場で行われた『第25回 新春日劇ウエスタン・カ-ニバル』(ジャニーズも出演)にて、スリーファンキーズのショーの合間にやっていた映画『喜劇 駅前医院』を、楽屋から舞台に向かう階段の脇で一人で観ていた時、ジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川に見初められ、「ジャニーズの付き人にならないか?」とスカウトされる。
    その日より、四谷三丁目にあったお茶漬け屋(以前はメリー喜多川が経営していたカウンターバー「スポット」だった場所)の2階で、ジャニー喜多川との二人暮らしを開始。 その後、ジャニーとの二人住まいは、渋谷区神宮前の御子柴ビル、更に代々木の岩崎ビルへと移っていった。

  • ジャニーズの付き人をするかたわら、1年後の1966年に、ジャニーズ出演の映画『青春大統領』にて芸能界デビュー。 更に同年、ジャニーズのバックバンドである「ジャニーズ・ジュニア」にタンバリン担当としてサポート参加し、日本テレビ『ジャニーズ・セブン・ショウ』にてテレビ初出演。 この当時はまだ芸名が無く、本名の「松下公次」のままで活動していた。

  • 1966年8月28日、ジャニーズが本格的なダンスレッスンをするために渡米。ジャニー喜多川も翌9月に渡米した。 東京に残された北を始めとする数名のジャニーズJr.に対し、ジャニー喜多川は歌とダンスの講師を付け、週3回のレッスンを用意していたが、北はJr.仲間の渡辺茂樹とよくつるみ、夜の池袋で遊び歩くようになった。 また、北が夜の新宿の街を歩いていた際、たまたま三光町のディスコ「CHECK」の中から聴こえてきた大好きなジョニー・リヴァースの曲に誘われて入店。 それからは毎晩CHECKに通っては翌朝まで入り浸るようになり、そこにたむろしていたプータン、サッチン、ケイタらとも親しくなった。 彼らは、新宿駅東口に建ったばかりの「紀伊國屋書店 新宿ビル」(1964年築)の前でいつも溜まっていたフーテン族、通称「紀伊國屋グループ」のメンバーでもあったため、北も彼らと共に、ケンカ、シンナー、麻薬に明け暮れる荒んだ生活に埋没していった。 女性との初体験も、このフーテン生活の時だった。 北はこの時期、虚無感から自殺願望にも襲われ、代々木の岩崎ビルで実際にガス自殺を試みているが、江木俊夫に発見されて一命を取り留めた。
    1967年1月5日、約4ヶ月ぶりにジャニー喜多川とジャニーズが日本へ帰国。 これを機に、北もフーテン生活を脱することが出来た。 なお、ビートたけしも北公次と同時期に、新宿でフーテン生活を送っていた。

  • 同1月、ジャニーズのバックダンスグループ(後の「フォーリーブス」)を結成 (4月結成説は誤り)。 ジャニー喜多川は、自分の名前の“喜多”の部分を使い、「 公次」という芸名を与えた。 年齢も、他のメンバーとの年齢差を縮めるために、「1949年1月20日生まれ」から「1951年1月20日生まれ」へと2歳若く詐称した。 このため、デビュー当初はジャニーズ入りの経緯を、「北の父親とジャニー喜多川の父親が知り合いだったことから、北は中学2年の頃より夏休みや冬休みになる度に上京して、ジャニーズの付き人をするようになった」という嘘のストーリーを発表。 こうすることで、和歌山に住む中学生が映画『青春大統領』に出演していても違和感が無いように辻褄を合わせた。

  • 1968年9月5日、フォーリーブスが『オリビアの調べ c/w 壁のむこうに』でレコードデビュー。 歌って踊れるアイドルのスタイルを確立し、1970年から7年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場するなど、この時代を代表する男性アイドルグループとなった。

  • 運動能力に優れた北は、ステージでバック転を披露した最初の歌手でもある。 ステージでのアクティブな姿に反し、トークの場面では口下手で滑舌が悪く、4人の中で最年長にもかかわらず最も寡黙であった。 しかしそれが逆に、シャイでやや陰のあるイメージを与えて魅力となり、メンバーの中でもトップクラスの人気だった。 連続テレビドラマ『ボクは女学生』(1973年~1974年)や、『ボクは恋人』(1974年)でも主演を務めるなど、俳優業でも活躍を見せた。
    なお、デビュー曲を始め、フォーリーブスの多くの楽曲の作詞も北が担当したことになっているが、これに関しては後に自著にて、大半がジャニー喜多川による代作だったことを明かしている。 その事情を把握していなかったCBSソニーは、1972年4月28日に「CBSソニー賞 ’72」にて北に作詞賞を与えている。

  • 1972年春、ジャニーズ事務所の合宿所を出て1LDKの部屋を借り、初めての一人暮らしを開始。

  • 1970年代後半になるとニューミュージックに人気が集まり、“男性アイドル冬の時代”に突入。 ジャニーズ事務所も低迷期に陥る。 フォーリーブスの人気も徐々に下降し、ジャニーズ事務所も低迷期に陥る中、グループの解散話が持ち上がる。 メンバーの中では北だけが唯一解散に反対していたが、結局1978年8月31日に解散することとなったため、同時にジャニーズ事務所からも退所した。
    1989年発行のカルト雑誌『牧歌メロン』に掲載された北のインタビューでは、
    「(解散と同時に)事務所を退所する意向を副社長のメリー喜多川に伝えた所、猛烈に反対された。メリーはソニーレコードのプロデューサーを呼び出し、ジャニーズ事務所に残って欲しいと二人がかりで説得されたが、それを振りきって解散と同時にジャニーズ事務所を退所した」と語っている。

  • ジャニーズ事務所を離れた後は、「少なくとも半年は、ロサンゼルスで歌とダンス、英会話を習得する」との予定で、1978年9月4日に日本を発つ。 当初はフレッド・アステアのダンススタジオや、英会話学校に実際に通っていたが、10日ほどで辞めてしまった。 当初は1日10ドルのモーテルに住み、後半はロスの日本料理店「味平」に居候しながら、約2ヶ月間の放浪生活を過ごす。 その間、左腕の二の腕に小鳥柄のタトゥーを20ドルで入れたり、9月17日にはディズニーランドを観光。 また、『週刊女性』(1978年10月17日号)に近況報告を、『週刊平凡』(同年9月21日号)と『微笑』(同年10月28日号)にはアイドル時代の苦悩、暴露を寄せた。
    同年11月8日に帰国。 渡米した際に途中で寄ったハワイで知り合った日本航空・国際線の客室乗務員(女優の島田陽子似)の住む大田区大森の環七通り沿いの古い木造アパートの1階奥の部屋に転がり込み、同棲を開始。 『微笑』(1978年11月25日号)、『週刊明星』(同年11月26日号)、 『プチセブン』(同年12月20日号)などで帰国後の様子が報じられた。
    そして「第一プロダクション」へ所属し、ソロ歌手としてCBSソニーよりレコードデビューするための準備を進めている最中、1978年12月14日、東京家庭裁判所に提出された、長野県伊那市在住のある一組の夫婦の離婚訴状にて、1976年11月から妻と北が都内の数ヶ所のラブホテルで密会し、不倫を重ねていたことが発覚する。 この妻(ホステス)は1978年春の時点で、覚醒剤の常用・売人の罪で逮捕されて裁判も済んでいたが、北も一緒になって覚醒剤を常用していたことが、その離婚訴状には記されていた。 離婚訴状の件を知って慌てた北は同年6月の時点で、「スッキリした気持ちで出直したい」として、関東甲信越麻薬取締官事務所に出頭して自首したが、物的証拠が無いとして不問に付されていた (『週刊ポスト』1979年5月4日号)。
    この情報を当初から掴んでいた日刊スポーツは、離婚訴状が提出された日と同じ、12月14日の朝刊にて早速、一連の内容を掲載。 これを機に芸能界は騒然となり、マスコミはこぞって北の事件を取り上げた。 しかし警察はなかなか動かなかった。

  • 週刊誌『微笑』(1979年3月31日号)の「愛と性の体験」の記事に北も手記を寄せ、過去の女性体験の一部を自ら暴露した。(同記事には江木俊夫も手記を寄せている)

  • 最初の覚醒剤疑惑報道から4ヶ月後の1979年4月12日、ようやく北が覚醒剤取締法違反で逮捕された。 そしてこの逮捕を機に、北がこれまで年齢を2歳若く詐称していたことも初めて世間に発覚した。
    逮捕時の報道や後の本人のインタビューでは、
      「1975年からフォーリーブス解散までのグループ末期の3年間は、覚醒剤を毎日の様に摂取。 ヒジの内側の静脈に、自分の左手でも注射が打てるほどだった。 そして、当時から当局にマークはされていた。 また、覚醒剤を必要とする度に購入資金をメリー喜多川から毎日2~3万円ずつ貰っていた」
    と答えている。 その合計金額は、3年間で約1500万円に達した。
    また、ジャニー喜多川も覚醒剤を使用しており、北は当時ジャニーと一緒に覚醒剤を摂取していたことを、著書『さらば ! ! 光GENJIへ』(1989年9月、データハウス。P.233~235)にて証言している。

  • 北は39日間を拘置所で過ごし、1979年5月20日に保釈される。 保釈金は150万円だったが、当時の北にはまともな貯金が無かったため、故郷で新聞配達をしていた貧しい父親が必死で借り集めた保釈金だった。 翌々日の5月22日に飛行機で和歌山の実家へ帰郷。
    1979年6月11日、東京地裁で懲役6月、執行猶予3年の判決が下る。 そして、週刊誌『微笑』(1979年6月16日号)に獄中生活を綴った「保釈手記」を寄せた。
    芸能界復帰準備中での薬物逮捕ということで、せっかくの第一プロダクションの尽力を白紙にしてしまった事情もあり、他にはもう引き取ってくれる事務所は無く、故郷の田辺市の水産物加工販売(鮮魚卸)会社「土佐丸水産(株)」にて、魚の積み降ろしの肉体労働(アルバイト)を開始。月給は9万円だった。

      【土佐丸水産株式会社】
      1977年設立。 全国各地の卸売市場や水産業者向けに販路を築き、2002年には年商約13億200万円を計上したが、その後、水揚げ量の減少から業績は後退。 2008年には約3億5千万円にまで落ち込み、田辺市上の山1-6-22に所在していた社屋からも同年に撤退。(社屋が取り壊された跡地は、住所表記が1-6-20に変更され、翌2009年5月22日よりユニクロ田辺店に)
      そして、2009年より田辺市芳養町96-22に移転し、業態を冷蔵倉庫業に変更して事業を縮小したが、過大な借入金を抱えて再建の見通しが立たず、親会社の「紀南運送(株)」と共に合計約7億円の負債を出し、2012年5月21日付で倒産。

  • それから5ヵ月後、大衆演劇俳優である沢竜二の誘いによって上京し、沢の劇団「竜の会」と、劇団の提携プロダクション「富士映像」に入る。 住居は、川崎市(向ヶ丘遊園)の四畳半一間のアパートで一人暮らし。 週刊誌『微笑』(1979年11月10日号)の取材も受ける。
    そして、上京直後の1979年11月、池袋シアターグリーンで行われた劇団公演に、すぐに斬られてしまう端役で出演。 翌1980年3月には道頓堀・中座での『ミヤコ蝶々特別公演 遺産のぬくもり』にも客演で出演した。 その後、劇団の内紛により、やむなく「竜の会」を退団。「富士映像」には引き続き在籍。

  • 1980年、『女性自身』(同年7月3日号「北公次 カムバックして8カ月 ドン底生活の陰に、美人スチュワーデスの愛が!」)にて、交際していた大田区大森の客室乗務員の女性の存在が世間に発覚。
    (その後も『週刊明星』〔1981年5月14日号「北公次を再びその気にさせた陰の女性が発覚!」〕、『週刊女性』〔1981年5月12日&19日合併号「北公次 愛に支えられて完全復帰!」〕にて続報)。

  • 1980年夏、フジテレビ系列のドラマ『ピーマン白書』の主題歌 & エンディング・テーマ『トゥモロー c/w パラダイス・コネクション』を歌うための覆面バンド「オール・ジャパン・デビル・バンド」のボーカルに北を起用する案が持ち上がる。 覆面バンドと言っても、「表に出ないから正体が不明」という意味での“覆面”だけではなく、実際に顔に覆面を被って活動し、曲がヒットしたら覆面を脱いで「実は正体はアイドルだった!」という売り出し方を想定したものだったが、興信所の調査で北が再び覚醒剤を使用していることが判明し、代わりに豊川誕がボーカルになったことを、豊川が2012年12月9日付の自身のブログで明かしている。
    一方、北は1980年に5人編成のロックバンド「北公次 & クレアオーディエンス」を結成し、同年秋に渋谷エピキュラスで1stコンサートを開催 (その模様は雑誌『月刊ウイークエンドスーパー』1980年12月号に掲載)。 以降は新宿西口のパブレストランでライブ活動を行っていた。

  • ソロコンサート「鷹になった男 北公次 KOJI KITA'S ROCK CONCERT」(1980年12月24日、新宿区大京町・野口英世記念会館)を開催し、本格的に芸能界へ復帰し、再び俳優としてテレビドラマや舞台に顔を出すようにもなったものの、仕事の数は年に1~2本という細々としたものだった。 また、原宿のライブハウスで不定期にライブ活動も開催したが、それだけで食べていくことは厳しく、再び恋人である大田区大森の客室乗務員のアパートに転がり込むようになり、経済的にも頼りきりの状態だった。 芸能界での仕事が無く、目標を見失った北はパチンコに明け暮れ、更には幻覚作用を求めて1本1,500円もするブロン液を毎日2~3本飲む依存症になっていった。

  • そんな頃に母親が逝去。 葬式のために田辺に帰った際、「地元でスナックを経営しないか?」と誘われ、南紀白浜温泉のスナックを少し手伝ったりもしたが、やはり芸能界への復帰を捨てきれず、東京の恋人のアパートに戻る。 それでも芸能の仕事が来ることはなく、またパチンコとブロン中毒の日々が続いた。 こうした時期に、週刊誌の取材を受ける (『微笑』1982年8月28日号)。

  • 1983年、北のファンであった俳優・脚本家の金子正次から突然のオファーを受け、同年10月29日公開の映画『竜二』に準主演格で出演する。 更に映画公開と同じ10月には、同棲していた女性と“授かり婚”もした。 そして住居も、大森の木造アパートから新たに大森のマンションへと移った。
    映画『竜二』は、主演の金子が公開直後に、胃癌性腹膜炎により33歳の若さで急逝したこともあり、伝説的な扱いを受ける。 北も一世一代ともいえる好演を見せたが、それでもやはり芸能界の風当たりは厳しく、その後も北への出演依頼はなかなか来なかった。

  • 1984年に第一子の男児が誕生。 しかし妻が出産で体調を崩し、客室乗務員の仕事を休職。 北は何度か日雇いのアルバイトや、大森の洋服問屋の倉庫で日給5千円の洋服発送のアルバイト(3ヶ月契約)もしたが、やはりブロン液とパチンコの毎日に戻ってしまう。 家計は厳しくなるばかりで、家の物を次々に質に入れてまで、ブロン液の購入費用にあてるようになっていった。
    やがて、ブロン液の副作用から鬱病になり、治療のために2ヶ月の隔離入院。 退院後もまたブロンに手を出しては、再入院を繰り返していた。 ちょうどこの時期の北の姿をとらえた貴重な隠し撮り写真が、 『女性セブン』(1986年11月6日号。公園のベンチで幼い息子を抱いてる姿)、 『女性自身』(1987年5月12日・19日合併号。ブカブカのセーター、ボサボサの髪にサングラスという格好で大森のマンションから出てきて自販機でタバコを買っている後ろ姿)に収められている。
    そして3回目に退院した1988年前半、ついに離婚。 妻は男児を連れて大森のマンションを出て行った。
    なお、北はこの時期にフジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXEスペシャル』(1988年2月10日放送)に出演している。 放送1000回達成記念の3時間特番で、新高輪プリンスホテルからの生中継。 後輩のたのきんトリオ、THE GOOD-BYE、シブがき隊、少年隊、少年忍者が勢揃いする中、北は江木俊夫と同じテーブルに座り、司会の古舘伊知郎にマイクを向けられてコメントも残した。

  • 離婚のショックから酒浸りの荒れた生活を送っていた時、故郷の父親が体調不良との連絡を受け、田辺の実家に戻る。 幸い父親は無事だったが、北はそのまま田辺に居残り、父との2人暮らしをしながら、行きつけのスナックなどで毎晩酔い潰れるだけの生活を送っていた。
    そんな状態でくすぶっていた1988年7月、田辺の実家へ、ジャニーズ事務所を糾弾するため、各所を奔走してジャニーズの裏情報を集めていたAV監督の村西とおるのスタッフが突然来訪。 暴露本の出版と、芸能界への復帰話を持ちかけられる。
    北はスタッフから渡された5万円で、7月27日に上京。指定された紀尾井町のホテルニューオータニに宿泊し、翌28日にホテルで村西監督本人と初対面。 改めて暴露本の出版と、“マジシャン”として芸能界へ復帰する話を持ちかけられる。 北はこれに応じ、東京の村西の下で実際にマジシャン修行を開始したが、なかなか気持ちが乗らず、同年9月には村西の下を去り、再び田辺に戻ってしまう。 しかし、暴露本の出版の方だけは実現し、同年11月、データハウスより北公次の半生記『光GENJIへ』が発売された。
    この本はフリーライターの本橋信宏が北を4日間、浅草ビューホテルに缶詰め状態にして半生を語らせ、それを本橋が文章化したもので、ジャニー喜多川のホモセクハラ、女性ホルモンおよび薬物の使用、私生活や暗部などが書かれた暴露本であり、以降、ジャニーズ事務所やジャニー喜多川に対する糾弾目的の書籍がシリーズ化。 北はこれを“戦い”と称し、「ジャニー喜多川と刺し違えてでも戦い続ける」と語った。 同シリーズはベストセラーとなり、全10冊、総計300万部の売上を数えた。

  • 書籍のシリーズ化と並行し、データハウスの社長・鵜野義嗣が新たに「データハウスレコード」を立ち上げ、北にバンドを組ませて歌手デビューさせることを企画。 これにより、田辺の実家に戻っていた北は1988年11月22日に再び上京。 そして、“日本のジミ・ヘンドリックス”の異名を持った名古屋の天才ギタリスト・中野重夫らを従えた6人組のバンド「北公次 & スカーフェイス」を結成。 1988年12月25日にシングル『ダイヤルMを廻せ!』をインディーズでリリース。 更に翌1989年1月15日、大阪梅田・バーボンハウスにて初ステージ。続いて1月25日には渋谷・エッグマンでもライブを敢行。 エッグマンには、当時中野重夫のファンだった野村義男が、まだジャニーズ事務所所属だったにもかかわらず客として訪れた。
    以降も、全国48ヶ所に渡る多数のライブ活動を行った。(1989年3月3日:梅田・バーボンハウス、3月4日:インクスティック芝浦ファクトリー、4月9日:六本木ピットイン、6月14日&15日:インクスティック六本木、7月2日:名古屋・ZMA、9月17日:渋谷エピキュラス、10月29日:原宿ホコ天、11月3日:大阪芸術大学学園祭、etc.)



    シングルに続き、
    • 「データハウスビデオ」からのビデオ発売
    • ザ・ゲロゲリゲゲゲ」のインディーズレーベル「VIS A VIS (ビザビ)」より、アルバム『FLOWER』をリリース
    • ジャニーズ事務所への批判・撲滅目的のライブイベント「ウィ・アー・ザ・ジャニーズ」を2回開催 (1989年11月8日、1990年3月4日、芝・abc会館ホール)
    • Vシネマに主演
    などの活動もあったが、ジャニーズ事務所からの圧力により、『微笑』、『FOCUS』、『噂の眞相』、『週刊アサヒ芸能』、『東京スポーツ』、『宝島』、『内外タイムス』などの一部のメディアを除き、在京テレビ局、ラジオ局からはほぼ完全に無視された。(この時期に北を取り上げたのは、1988年1月25日放送の『モーニングeye』と、同じ週の『2時のワイドショー』のみ)
    また、『光GENJIへ』出版後に“個人名義”で出演できたテレビ番組は、『光GENJIへ』が世間の話題を呼んでいた時期に出演した関西ローカルの土曜の昼の生放送トーク番組『ノックは無用!』(1989年2月25日、関西テレビ。司会:上岡龍太郎)と、データハウスを離脱してから出演した音楽番組『ファンキートマト ’93』の最終回(1993年3月29日、テレビ神奈川。共演:森若香織、根本敬)の2回のみであった。
    なお、この状態はフォーリーブスを再結成した後もずっと続き、2007年にソロアルバムを発売した際でも、メディアにおけるPR出演は女性週刊誌のインタビュー記事だけであった。

  • 私生活では、離婚して以来ずっと音信不通だった妻子が、1989年1月25日の渋谷・エッグマンでの「北公次&スカーフェイス デビューライブ」に訪れ、約1年ぶりに再会。そして同年の初夏に再婚。 再び大田区大森のマンションで同居し、翌1990年には2人目の子供(女児)が生まれた。
    妻も、北がジャニーズへ挑んでいる戦いに賛同し、北の著書『さらば ! ! 光GENJIへ』に告白文と自らの顔写真を載せ、更に、雑誌『ケ・セラ』(1989年11月23日創刊号。『微笑』20周年記念別冊。祥伝社)でもインタビュー取材に答えた。

  • データハウスと折り合いが悪くなり離脱した後の1990年、雑誌『週刊宝石』にて、
    「『光GENJIへ』シリーズで得た印税は、CDやビデオの制作費やライブの開催に注ぎ込んだが、採算が取れなかった」、 「現在はきちんとした固定収入が無いのでアルバイトをしたい」、 「主演映画(Vシネマ『怪獣の観た夢』)の撮影に入る」、 「離婚した妻が戻ってきて再婚し、二人目の子供が生まれた」などと近況を語った。
    この他、暴露本の出版を“戦い”と称するなど、データハウスで活動していた頃と変わらない姿勢を見せたり、1989年の雑誌『牧歌メロン Vol.2』でのインタビューと同様の、「ジャニーズについてまだ暴露していない大きな爆弾を持っている」との発言もあり、次のジャニーズ内幕暴露本を発表するための出版社を探しているとのことだったが、結局別の出版社から北の新たな告発本が出ることは無かった。
    なお、復縁した妻とは1992年に再び離婚。 別れた妻は二人の子供を連れて、北海道へと転居した。

  • 1992年から1993年にかけ、数本の舞台に出演。

  • 1994年3月、45歳の時、北のファンだった資産家の令嬢(当時37歳。東京都出身。堀越高等学校・芸能コース卒業)と再々婚。(北にとっては3度目、そして2人目の結婚に当たる)
    同年6月9日、ハワイのシェラトン・モアナ・サーフライダー・ホテルで挙式し、6月12日には紀尾井町のホテルニューオータニで披露宴を行った。 披露宴時の写真が『女性セブン』(1994年6月30日号、小学館)に掲載された他、『FOCUS』(同年6月22日号、新潮社)では夫婦揃っての顔出し取材も受けている。 そして、それまで在京キー局への出演は完全に不可能だったにもかかわらず、この披露宴には解散後初めてフォーリーブスの元メンバー全員が揃い、各局のワイドショーや複数の週刊誌もこれを報じた。 そのため、ジャニーズ事務所と北との間に“手打ち”があったとされている。 事実、北はかつて散々「俺はジャニーズを相手に戦い続ける!」と公言し続けていたが、1999年から2000年にかけて『週刊文春』に連載された“ジャニーズ事務所批判キャンペーン”で、元ジャニーズタレントたちの証言やコメントが相次ぐ中、北は最後まで文春に協力する事は無かった。
    なお、再々婚相手の女性との出会いのきっかけは、北が知人に連れられて、当時港区六本木のパブスナックでママをしていた女性の店に飲みに行ったことだった。 やがて女性の六本木のマンションに居候して同棲するようになり、結婚話と同時進行でブティック経営の話が持ち上がる。 そして、再々婚と共に麻布十番と下北沢に店を借りてアロハシャツなどのハワイアングッズを売るブティックを開店した。 ブティック経営を始めた理由について北は、「(妻に)夜の仕事をさせたくなかった」、「以前から服飾に興味があった」とFOCUSで語っている。
    この再々婚後は芸能界を事実上引退。4年後には女児も誕生した。 その頃には、東京都江戸川区南小岩の商店街「フラワーロード」に妻が出店した喫茶・雑貨・ブティックの『マザーポップコーン (旧店名:HANO HANO)』を手伝っていたが、数年後に経営が悪化し、やむなく閉店。 以後はポスティングや介護ヘルパーのアルバイトで生計を立てていた。

  • 2001年、銀座のライブハウス「TACT」にてソロライブを開催。

  • 2002年1月にフォーリーブスを再結成。
    同年、北と青山孝史の2名で関西テレビ『快傑えみちゃんねる』に出演した(2007年7月にも同番組に青山とおりも政夫の2名が出演)。 2006年8月12日にはNHK『第38回思い出のメロディー』に出演し、57歳にして得意のバック転も披露した。 続いて2007年1月23日と2009年3月31日には、テレビ朝日『徹子の部屋』にもメンバー揃って出演している。

  • 2004年、地方へ向かう日の朝に某駅のエスカレーターにて、商品を搬送中の飲料水業者の人が荷崩れを起こし、北の足の上にその商品が落下するというアクシデントに見舞われる。 これによって北は足を骨折してしまい、しばらくの間、杖を突く生活を余儀なくされた。

  • 2006年、東日本総合整体学院の広告モデルを務める。

  • 2007年1月1日、フォーリーブスとしての活動や所属事務所と並行して、個人事務所「OFFICE-REN」を設立。 オフィシャルサイト「With Koji」と、ファンクラブ「The Prime Point Club」も開設した。

  • ソロアルバム『Mother』のジャケットに公募作品を起用した縁で、2007年10月13日に大阪ビジネスパーク・ツイン21タワー1Fで開催された絵画公募展『第1回 産経はばたけアート・フェスタ』のオープニングセレモニーに出席。 受賞者に対して花束贈呈や激励の言葉を送った。
    なお、同イベントを記事にした産経新聞には名前が出たものの、同イベントの模様を放送したNHKのニュースに名前が出ることは無かった。

  • 2009年のフォーリーブスの(二度目の)解散後は、定期的なソロLIVE、ファンクラブ会員を対象とした有料イベントの他に、ファンクラブ会員のみが入会できる会員制ストレッチ教室も開いた。

  • 2012年2月22日午前1時19分、肝臓癌で逝去。 63歳没。
    通夜は同月25日、葬儀・告別式は翌26日に、江戸川区西小岩の「東京葬祭 慈光殿」で執り行われた。 北は創価学会員だったため、葬儀の形式は「友人葬」と呼ばれる学会葬で、葬儀場には学会員用の記帳所も設けられた。 告別式ではおりも政夫、あおい輝彦、郷ひろみ、野口五郎、酒井政利プロデューサーら、関係者約150人、ファン約550人が参列。沿道にも約100人が溢れた。 通夜も含めると、2日間で1000人以上のファンが参列した [1]。 江木俊夫は仕事(25日:大阪、26日:名古屋に滞在)で参列できなかったが、手紙を寄せ、おりもが代読した。 弔辞もおりもが読み、「寂しがりやのコーちゃんだから心配です。天国で大好きなビールを飲んでゆっくりして下さい」と語りかけた。 また、取材に応じた野口は、「この世界に入って最初にできた先輩であり友達。仲良くしてもらった。悲しいし悔しい」と話し、その場で号泣した。 一方、ジャニーズ事務所からは参列者は無かったものの、唯一、北のことを尊敬していた錦織一清からのみ供花が届いた。
    北はその後、和歌山県田辺市の市営墓地「神子浜みこのはま墓地」にある松下家之墓に入った。 創価学会員のため、戒名は無し。
    なお、北が「63年と33日」の生涯だったのに対し、かつての親友・渡辺茂樹も「63年と33日」という全く同じ長さで北の後を追っており(死因は非公開)、非常に因縁めいたものを感じさせる結果となっている。

  • 2013年1月27日、青山&おりものファンクラブが主催し、北と江木のそれぞれ事務所の協力によって、「北公次を偲ぶ会 Koji Kita Forever in Our Memory ~always with you~」(光が丘IMAホール、7,000円)が行われた。 当日は、江木とおりもも出演した。 続いて同年2月22日にも、江戸川区南小岩のハワイアンカフェ「Blue Orange」(北の妻が2012年秋にオープンした店)にて「北公次を偲ぶ会」が開催され、酒井政利と嵯峨聖子が出席した。

  • 2021年初頭、北のオフィシャルサイト「With Koji」が閉鎖。


人物

  • 趣味:映画鑑賞、猫を愛でること、切手収集、ウィンドウショッピング

  • 特技:バック転、コーラス時のハイトーンボイス

  • 好きな言葉:「努力」、「行動」

  • 好きな食べ物:丼もの全般、焼きそば、お好み焼き、カレー、ピータン、アイスのガリガリ君

  • 中学時代は体操で学内随一の才能と見込まれ、オリンピックへの道も期待された。 2年時には和歌山県大会(中学生の部)で団体優勝し、更に北は徒手(床運動)の部門でも個人優勝した。 また水泳も得意とするなど、幼少より優れた運動能力の持ち主であった。(近代映画社『近代映画』1968年3月号、140頁より)

  • 田辺市の実家の近所に在ったお好み焼き屋「のんき」が、中学時代からの行き着けの店だった。

  • 3人兄弟の真ん中で、兄と妹が居たが、2歳年上の兄は1971年1月10日未明に、和歌山県御坊市中津村の日高川沿いに国道42号線を作る工事の最中、運転していたトラクターが崖下に転落し、23歳の若さで亡くなっている。 その後、北は兄が事故の時に持っていた油だらけの千円札を、「御守り」にするようになった。
    妹は9月21日生まれ。

  • 子供の頃に田辺市の実家で飼っていたスピッツの名前は「メリー」で、兄が北のために貰ってきてくれた犬だった。

  • フォーリーブス時代は歌手の野口五郎と仲が良く、雑誌でも何度か友情対談を行っている。 また、フォーリーブス解散後は元・カーナビーツアイ高野とも親しい間柄となった。

  • 北主演の連続テレビドラマ『ボクは恋人』(1974年、フジテレビ)で共演した人気子役の杉田かおるは、後に自著『すれっからし』やトーク番組にて、「友人知人から預かった色紙を渡して北にサインを頼んだ所、目の前で色紙をゴミ箱に捨てられた」というエピソードを発表している。

  • 若い頃は非常に短気で気性が荒く、粗暴な部分があった。 例えば、1974年末のコンサートで、北のソロコーナーに切り替わる際、バックバンドのドラマーが曲を間違えてしまった。 北はこの時、ステージではなく観客席に下りていたが、このドラムの間違いに激昂し、約2000人の観客の前にもかかわらず、持っていたマイクを観客席からドラマーめがけて思い切り投げつけ、機嫌を損ねてステージ裏へと引っ込んでしまっている。

  • フォーリーブス時代の給与は薄給であったが、1976年6月にジャニー喜多川にねだり、公営競馬の競走馬(サラブレッド3歳、牝の新馬。馬名は「ナポレオンコージ」)を買ってもらい、若くして馬主となった。 親友から「投資の一つとして馬を持った方がいい」とアドバイスされ、「賞金は全部父母にプレゼントしたい」と考えたのがきっかけだった。 ジャニーは当初、アイドルでもある北が馬主になることに対し、「イメージが壊れる」と猛反対していたが、渋々了承。 しかし、馬に関する取材も、北と馬のツーショット撮影も、一切NGとなった。 なお、ナポレオンコージは同年8月16日に川崎競馬場の第1レースにてデビューし、2着を飾った。 この他、北はジャニーから故郷の田辺市に土地も買ってもらっている。

  • 1976年初頭、自分の首に、犬用の首輪をアクセサリーとして着け出した。 そして、その斬新なスタイルを真似する者が増えた為、週刊誌でも取り上げられた。(『週刊平凡』、1976年3月18日号)

  • 元「ジューク・ボックス」の小谷純とは、2000年以降も親交があった。

  • フォーリーブス解散直後にロサンゼルスに行った際、左腕の二の腕に鳥の絵のタトゥーを入れた。 また、1980年代より左耳の耳たぶに、ピアスの穴を一つ開けていた。

  • フォーリーブス在籍時、芸能誌や少女漫画誌の誌面で、「他のメンバーに比べて歯が弱く、常時虫歯が4~5本あるがなかなか治療に行けない」とも語っていたが、更に覚醒剤使用による影響もプラスされ、「1980年代に俳優として復帰した時点で既に総入れ歯になっていた」とも言われている。

  • 小説家の山本文緒(1962年11月13日 - 2021年10月13日。58歳没)が、かつて北のファンだったことを公言していた。

  • 熱心な創価学会員だった。 雑誌『ティーンルック』(1969年6月10日号、主婦と生活社)での記事「特報 北公次が創価学会に!?」で最初に世間に知れ渡り、2008年2月9日付の聖教新聞でもインタビュー記事が掲載された。 新聞の記事によれば、学会のトークイベントにも度々出演していたとのこと (2002年8月25日、他)。

  • 葛飾区「柴又ハイカラ横丁」の射的コーナーに、北が2011年7月11日に来店した際のサイン色紙が飾られている。


主な出演作品

テレビドラマ

連続ドラマ

  • おれは男だ! (1971年2月21日&28日、日本テレビ)
      第1話と2話にフォーリーブスの4人でゲスト出演。 後にDVD化。
  • 青春をつっ走れ (1972年5月1日、フジテレビ) 第5話にフォーリーブスの4人でゲスト出演
  • とことんやれ大奮戦 (1973年、日本テレビ、演出:澤田隆治)
      フォーリーブスの4人での出演
  • ぼくは叔父さん (1973年10月 - 1974年3月、日本テレビ) フォーリーブスの4人での出演
      1977年に広東語に吹き替えられ、香港の放送曲「TVB」にて放映された。
  • ボクは女学生 (1973年10月5日 - 1974年3月29日、フジテレビ) 主演

      高校生の清水二郎役。 1977年に広東語に吹き替えられ、香港の放送曲「TVB」にて、『校園小冤家』のタイトルで放映された。 また、このドラマが制作されるにあたって北公次の相手役が公募され、約5300名の応募者の中から大竹しのぶをはじめとする11人の共演者が選ばれた。
  • お姉ちゃん (1973年12月14日、TBS)
      第2話にフォーリーブスの4人でゲスト出演。 板前見習いの村山こうぞう役。
  • ボクは恋人 (1974年4月5日 - 9月27日、フジテレビ) 主演
      水泳指導員のアルバイトをする大学生・春野公次役。 1978年に広東語に吹き替えられ、「TVB」にて『小淘氣』のタイトルで放映された。
  • 刑事くん (1975年10月13日、TBS)
      第4部・第49話「二人の学生刑事」におりも政夫とゲスト出演
  • 美しき殺意 (1976年6月18日 - 9月24日、TBS) 主演・エリート商社マンの民谷英明役
      鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を元にした作品。
  • 刑事物語・星空に撃て! (1976年10月11日、フジテレビ)
      第2話「16時5分、歩行者天国の殺人」にゲスト出演。 監督:内藤誠。
  • 小さなスーパーマン ガンバロン (1977年4月3日、日本テレビ)
      第1話にフォーリーブスの4人でゲスト出演。 後にDVD化。
  • 近眼ママ恋のかけひき (1977年6月25日 - 7月23日の全5回、日本テレビ) 炎タケル役
  • 人間の証明 (1978年1月7日 - 4月1日、TBS) 郡恭平役。 ニューヨークロケも行われた作品。 後にDVD化。
  • 幻之介世直し帖 (1981年2月28日、日本テレビ) 第21話にゲスト出演
  • 暁に斬る! (1982年11月23日、フジテレビ)
      第8話「ふんどし異聞」に茂吉役でゲスト出演。 五月みどりと共演。

単発ドラマ

  • ヒヤヒヤ一泊旅行 (1971年7月16日、TBS)
      フォーリーブスの4人での出演。 「矢兵そば屋」(台本の初期段階では「矢口商店」)の店員・とおる役。
  • 流転の旅笠 (1972年2月3日、フジテレビ)
      フォーリーブスの4人での出演。 バラエティ番組『オールスター 歌にドラマに大ハッスル! 節分なつメロ大特集』内ドラマ。 森進一、天地真理と共演。
  • 悪夢 ~ 恋人たちの25時 (1977年11月5日、テレビ朝日)
  • 江戸川乱歩 『暗黒星』 より ~ 黒水仙の美女
      (1978年10月14日、テレビ朝日) 伊志田太郎役。 後にDVD化。
  • わが子よ、眠れ! (1981年11月10日、日本テレビ)
  • 危機一髪の女 ~ 雨の横浜で狙われた私
      (1982年5月18日、日本テレビ・火曜サスペンス劇場、演出:小谷承靖) 江木俊夫と共演
  • 電話魔 ~ どこまでも追いかけてくるあの声・ママが殺される!

バラエティ番組

  • ノックは無用! (1989年2月25日、関西テレビ。司会:上岡龍太郎)
  • ファンキートマト ’93 (1993年3月29日の番組最終回、テレビ神奈川。共演:森若香織、根本敬)

映画

  • 青春大統領 (1966年4月27日、日活)
      当初のタイトルは『力をこめて手をにぎる時』だった。 「園田京子音楽事務所」に所属するジャニーズの付き人・公介役。 本名の「松下公次ジャニーズ・ジュニアー)」名義での出演。 なお、本作には当時ジャニーズJr.だった佐藤登志雄も、同じくジャニーズの付き人の俊男役として出演する予定だった。
  • 初笑いびっくり武士道 (1972年1月21日、松竹)
      2003年6月に『びっくり武士道』のタイトルでDVD化。
  • 急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS (1974年7月20日、東宝、監督:小谷承靖)
      孝二役。 公開前のタイトルは『僕たちの明日』。
  • 悪魔の手毬唄 (1977年4月2日、東宝) 青池歌名雄あおち かなお
  • 竜二 (1983年10月29日、東映セントラルフィルム) ひろし役
      1999年2月にニュープリント版でリバイバル公開され、初公開時とは違う内容のパンフレットも制作された。 また、芸人の千原ジュニアが一番好きな映画は『竜二』だと語っている。
  • フライング 飛翔 (1988年5月14日、東映/東映クラシックフィルム) 競艇の予想屋役。 高橋一也と共演。
  • ピノキオ√964
      (1991年9月14日、16mm作品、アイビーエスネットワーク/ホネ工房) 友情出演・マジックマン役

Vシネマ

  • 怪獣の観た夢 (1992年4月10日、マクザム)

舞台

  • 竜の会公演 「沢竜二の花道 その五」

      第一部 「一本刀土俵入」 (やくざの三下・籠彦役)
      第二部 「狸御殿」 (名門 小鼓山家の若君タヌキ・狸吉郎役)
       (1979年11月12日 - 18日、池袋シアターグリーン) 岡本茉利らと共演
  • ミヤコ蝶々特別公演 「遺産のぬくもり」 (1980年3月1日 - 25日、道頓堀・中座)
      劇団「竜の会」からの客演として出演。 ミヤコ蝶々の息子役。
  • バーレスク・1931 ~赤い風車があった街~
      (1981年6月7日 - 28日、PARCO西武劇場、作・演出:斎藤憐、振付:山田卓、衣装:小峰リリー、美術:妹尾河童、主演:小柳ルミ子) “メランコリーな流行さん”の千葉鉄夫役
  • 原宿ミュージカル第1回公演 「傷だらけの天使」
      (1985年3月31日 - 4月7日、ラフォーレミュージアム原宿)
  • 櫻組+正甫企画公演 「眠らない」 (1992年10月16日 - 18日、高円寺・明石スタジオ、作・演出:清水生幸)
  • 告白の真贋 (1993年4月23日 - 25日、荻窪アール・コリン、作・演出:清水生幸)
  • 劇団まがりかど公演 「家賃のいらない家 ~あなたに幸せ分けてあげる~」
      (1993年5月10日 - 、銀座小劇場、作・演出:小峯侑二)
  • 櫻組+正甫企画公演 「夜の沼」 (1993年11月4日 - 7日、高円寺・明石スタジオ、作・演出:清水生幸)

ラジオ

  • 三東ルシアのぶっちゃけトーク
      (2010年7月22日、レインボータウンFM) 公開生放送、単独ゲスト出演

イベント

  • 頑張れ!ニューヤンキース (1978年8月12日&13日、浅草国際劇場)
  • 映画『急げ!若者』上映会 (2007年1月31日、東京国立近代美術館フィルムセンター)
      トークショーの予定は無かったが、上映後に急遽、青山孝史、小谷承靖監督と共にステージに登壇し、少しだけトークを繰り広げた。
  • 第26回 交流サロンSHU 33周年記念感謝祭 (2007年6月28日、新橋サロンSHU)
      小谷承靖監督、ひし美ゆり子と共に出演。 演奏:佐藤慶子&Tom Schmaltz。
  • 絵画公募展 『第1回 産経はばたけアート・フェスタ』 オープニングセレモニー
      (2007年10月13日、大阪ビジネスパーク・ツイン21タワー1F)
      北のソロアルバム『Mother』のジャケットに公募作品を起用した縁で出席し、受賞者に対して花束贈呈や激励の言葉を送った。
  • 公ちゃんTribute Acoustic Live (2024年2月22日、三軒茶屋・音楽食堂 夢弦)
      北公次の13回忌として、元ハイ・ソサエティーの杉征夫が開催。


ディスコグラフィ

シングル

  • ひとりぼっちになった時 c/w 裸の少年 (1969年10月1日。1973年10月再発)
      オリコン最高72位。 売上1.7万枚。
      B面曲の原曲は先輩の「初代ジャニーズ」で、作詞は中谷良 (実際はジャニー喜多川)。 後に山田涼介もカバーした。 また、裏ジャケットの、階段に座ってギターを弾いている写真は、当時渋谷区神宮前2丁目にあったジャニーズ事務所の合宿所マンション「八鋼寮」の階段で撮影された。
  • ダイヤルMを廻せ! c/w 想い出のツイスト&シャウト
      (1988年12月25日、データハウスレコード、インディーズ発売。A面曲の原曲はザ・ブルドックスの『君に首ったけ ! !』) 「北公次&スカーフェイス」名義

アルバム

  • FLOWER (1989年5月3日、VIS A VISからのインディーズ発売)
      「北公次&スカーフェイス」名義。 「ザ・ゲロゲリゲゲゲ」の山之内純太郎がプロデュース。 ディレクター:季田佳丸きだ よしまる (元・名古屋のデュオ「かぶと虫」のしい俊治 → 名古屋のバンド「ザ・ブルドックス」の師トシハル)。
      発売元の「VIS A VIS (ビザビ)」は、ザ・ゲロゲリゲゲゲのインディーズレーベルで、山之内が社長だった。 なお、山之内は大槻ケンヂと東京国際大学の同級生で友人でもある人物。
      本作の歌詞カードでは、3曲目の『I'm Crying』の作詞者が「ジャニー喜多川」とクレジットされているが、これは、フォーリーブス時代にジャニーが作詞したものを全て「作詞:北公次」として勝手に発表されていたことに対する仕返しであり、実際に3曲目の『I'm Crying』を作詞したのは北公次である。 その歌詞の内容も、「白い悪魔(覚醒剤)の鎖が 俺の体をしめつける (ジャニーの)ホモのおもちゃにされながら 注射針に夢を見た いつか(ジャニーを)殺してやるんだと ナイフ片手に酔い潰れ」と過激なものになっている。

       

  • Mother (2007年11月24日、ジーベック音楽出版からのインディーズ発売)
      このアルバムには、2人目の妻との娘(当時小学生)がコーラスで参加している。 また、収録曲の『僕の青い鳥 ~小さいけど大きなボギー~』が、2008年3月9日よりカラオケのUGAにて配信開始された。

       

  • やさしく やさしく
      (2012年2月14日、OFFICE RENからのインディーズ発売。 同年8月22日にオルフェウスレコーズより同じくインディーズで再発売)

       

オムニバスアルバム

  • We're the JOHNNYS (1989年12月、FEIレコードからのインディーズ発売)
      CD版は全13曲、カセット版は全11曲。 中谷良、小谷純、やなせかおる、SHADOWらを含む「北公次FAMILY」によるオムニバス作品。 河口湖のキャメロットスタジオにて、1989年10月10日~12日の3日間でレコーディングされた。 ジャニー喜多川、メリー喜多川の両名を名指しで「ブチ殺せ!」と連呼する衝撃の問題作『ふざけるなベイビー』(作詞:北公次)を収録。 また、ジャケットのイラストも、怪獣がジャニー喜多川を今にも食べようとしており、その怪獣の上に北公次がまたがって刀を振りかざしているという過激なものだった。

       

  • ヤング・ポップス ’70sベスト・ヒット ~男性ボーカル編~ (2002年2月20日。『ひとりぼっちになった時』を収録)

客演参加

  • 初恋地獄篇 (LP:1970年、CD:2004年12月25日、再発CD:2011年9月30日)
      天井桟敷レーベル第一弾アルバム。 120人の著名人が次々に初恋のエピソードを告白する「初恋告白 / 声の署名」に、青山孝と共に参加。
  • 世界へジャンプ! ハイソサエティ・サプライズ・プレゼント (1970年11月21日)
      ハイ・ソサエティーの1stアルバム。 北は収録曲『裸の少年』にて詩を朗読。

提供楽曲

  • 東てる美 「暗い旅」 (1978年)
      1976年のテレビドラマ『美しき殺意』で共演したことが縁となり、作詞・作曲を北公次が担当した。 フェロモン歌謡・カルト盤として評価が高い東てる美の2ndアルバム『感触』に収録。 2009年7月8日にCD化。

VHSビデオ・DVD

  • 北公次&スカーフェイス 『狂気のライブ! ソドムの市 ~ 光GENJIへの挑戦状』
      (VHS、1989年、60分、4,800円、限定1000本、データハウスビデオ)
      同年1月25日に渋谷・エッグマンで行われた初ライブを収録。
  • DEMO 001 (VHS、1989年、60分、3,400円、限定300本、VIDEODOROME)
      同年3月4日のインクスティック芝浦ファクトリーでのライブを収録。 曲は『リンダ』、『想い出のツイスト&シャウト』、『ダイヤルMを廻せ』の3曲。 現代美術家・森下泰輔がプロデュースした“ビデオアート作品”で、ザ・ゲロゲリゲゲゲ、有頂天、非常階段、草間彌生などと共に収録されたオムニバスもの。
  • 北公次&スカーフェイス★スペシャル・ビデオ
      (VHS、1989年5月、110分、8,000円、限定1000本、データハウスビデオ)
      同年3月4日のインクスティック芝浦ファクトリーでのライブを収録。
  • 光GENJIへ (VHS、1989年9月、パワースポーツ企画販売)
      製作:村西とおる。 監督:本橋信宏 (「太田春泥しゅんでい」名義)。 撮影期間は計1週間。
      『SMAPそして嵐へ・・・』に改題されたDVD版が2017年2月19日より通信販売。(販売元:株式会社スポットライトスタジオ、制作:ジャニーズ探偵局)
      更に2023年7月6日、当初のタイトル『光GENJIへ』のままで、村西とおるのホームページにてダウンロード作品として再販。[1]
      同年9月2日、TBSの報道ドキュメンタリー番組『報道特集』にて当作品の映像がテレビで初めて使用された。[2][3][4]
      同年12月1日、当作品を通してジャニー喜多川の実像の分析・検証が、文藝春秋 電子版のオンライン番組にて行われた。[5][6]
  • We're the JOHNNYS (VHS、1989年12月。54分。4,800円。FEIレコード)
      北公次FAMILY」による作品。 初回生産分のビデオのジャケット写真のみ、ミスプリントによりSHADOWとTHE BLACKが入れ違いで掲載されている。
  • 北公次 SPECIAL LIVE ’90 vol.I (VHS、1990年、95分、全15曲、北公次事務所)

       

  • WITH KOJI FOREVER ~ KOJI KITA SOLO LIVE(DVD、2009年、OFFICE-REN)
      2008年5月13日に大阪で行われたソロライブと、2009年1月に東京で行われた還暦BIRTHDAYディナーショーの模様を収録。
  • Kita Koji 61 Watch me ~ 2010.1.20 江戸川総合文化センター (DVD、2010年、OFFICE-REN)
  • Koji Kita Forever in our Memory ~Always with you~ the second time (DVD、2014年、OFFICE-REN)
      2014年2月に行われた3回忌のメモリアルイベントの模様を収録。


書籍

著書

  • 256ページの絶叫さけび (1975年8月20日発売、ペップ出版)
  • 『光GENJIへ』シリーズ (データハウス)
      当シリーズは、北が語り下ろし、1冊目はフリーライターの本橋信宏、2冊目以降は季田佳丸きだ よしまるが文章化したもの。 シリーズの総売上は約300万部。
    • 光GENJIへ ~ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記 (1988年11月。売上は約35万部)
        帯のキャッチコピーは「くたばれ芸能界!」。 [1][2][3][4][5][6]
    • 光GENJIへ・再び (1989年2月)
        帯のキャッチコピーは「ジャニーを殺したい ! !」。
    • 光GENJIへ3 ~ みんなで考えようジャニーズ問題 (1989年4月)
        読者からの投書集。 帯のキャッチコピーは「私たちも、ジャニーを殺したい ! !」。 北の語り下ろし部分は、まえがき、あとがきのみ。
    • 光GENJIへ 最後の警告 (1989年5月)
        帯のキャッチコピーは「ジャニーに告ぐ ! !」。 平本淳也と倉田順一の告白文も掲載。
    • さらば ! ! 光GENJIへ (1989年9月)
        帯のキャッチコピーは「ジャニーを地獄へ道づれに ! !」。 小谷純、やなせかおる、そして最初の妻の告白文も掲載。
    • 光GENJIファンから北公次へ (1989年12月)
        読者からの投書集。 北の語り下ろし部分は、まえがき、あとがき、Q&Aへの回答のみ。

寄稿

  • 小説ジュニア (1974年3月号、集英社)
      「私の詩」のコーナーに、自作詩「別れの時」を寄せた。

写真集

  • LIVE PHOTO COLLECTION (2008年)
      ファンクラブ限定販売。 同年1月27日に明治記念館で行われたソロバースデーLIVEの模様を掲載。
  • KOJI KITA 60th ANNIVERSARY BIRTHDAY LIVE ~ WATCH ME (2009年)
      ファンクラブ限定販売。 還暦ディナーショーの模様を掲載。
  • 北公次 ~詩と写真集~ DRAMATIC BLUE 2010 (2010年)
       ファンクラブ限定販売。

北公次をモデルにした漫画

  • 北公次物語 あの星はとおい (上原希美子 〔後の上原きみ子〕 著。『りぼんコミック』1969年2月号。集英社)

参考文献

  • 週刊セブンティーン 「歌え!青春のオルフェ ~孤独にたえ歌に生きる 北公次 真実の物語~」
      (1969年4月8日号 - 5月27日号、連載全8回、集英社)
  • 週刊小説 (1972年5月5日号、実業之日本社)
      小説家・五味康祐による寄稿 「北公次は片想い型」
  • タレントジャック (1979年7月、CBS・ソニー出版)
      草森紳一による寄稿。 雑誌『月刊アドバタイジング』(1973年11月号~1978年10月号)に連載されていたものをまとめた書籍。 イラスト:小島武。
  • 男性自身 (1979年7月20日 創刊号、双葉社)
      芸能ニュース小説 「北公次の“暗い微笑”」 (渡辺和彦 著)
  • 微笑 (1979年11月10日号、祥伝社) 「四畳半のアパートから再出発!」
  • 微笑 (1982年8月28日号、祥伝社) 「あの北公次が告白! 愛にすがった 覚せい剤事件 懲役刑、執行猶予3年の日々」
  • ドキュメント・ノベル 「ガラスの野望」 (豊田行二とよだ こうじ 著、1984年1月、青樹社せいじゅしゃ。英題:LOVE SINGER。1986年5月と1988年9月に復刊)
      元々は1983年に「日刊ゲンダイ」で連載されていたドキュメント小説で、ジャニーズ事務所がモデルとなっている。 ジャニー喜多川による同性愛行為、北公次の覚醒剤逮捕や五月みどりとの交際などが名前を変えて描かれており、「官能情報小説」とも題された。
  • 微笑 (1984年8月28日号、祥伝社)「あの北公次が告白! 愛にすがった 覚せい剤事件 懲役刑、執行猶予3年の日々」
  • 微笑 (1989年2月25日号、祥伝社)
      「『光GENJIへ・再び』 北公次がまた仰天の忠告執筆 「まさか、タクシーの中で・・・16才の俺を酔わせて・・・」」
  • 牧歌メロン 2号 (1989年8月、南原企画、バロル舎)
      北公次 & 新・光GENJIインタビュー 「邪淫巣ジャニーズ大奥㊙物語ストーリー
  • 宝島 (1989年10月号、JICC出版局)
      「ジャニーズ事務所に挑戦状をたたきつけた元アイドル・スターを直撃」
  • 週刊実話 (1993年8月12日号、日本ジャーナル出版)
      飯島愛との対談「早漏なうえ淡白だった ジャニーズ事務所時代の苦い思い出」
  • 素敵な教祖たち ~ サブカルチャー列伝 (本橋信宏 著、1996年2月、コスモの本)
      2000年に文庫化された際、『にくいあんちくしょう ~ 異端カリスマ列伝』(ちくま文庫)に改題。 本橋は『光GENJIへ』シリーズの第1冊目の出版プロデューサーだった人物。
  • 芸能界スキャンダル読本 (1997年2月、宝島社・別冊宝島299)
      本橋信宏による寄稿 「衝撃の北公次“告白本騒動”顛末記」
  • AV時代 ~ 村西とおるとその時代  (本橋信宏 著、2005年12月、幻冬舎アウトロー文庫)
  • 全裸監督 村西とおる伝 (本橋信宏 著、2016年10月、太田出版)
  • 昭和の謎99 2020年夏号 (2020年7月6日、大洋図書・ミリオンムック13) 「ジャニーズアイドル・北公次曝露本事件」
  • 昭和の謎99 2021年初夏の号 (2021年5月10日、大洋図書・ミリオンムック55)
      「アイドル10大未解決事件 迫真の真相に迫る! 元フォーリーブス暴露騒動 この暴露本は世間から黙殺されてしまった」
  • 「女を知る前に男と性体験してしまった」ジャニー喜多川氏に弄ばれたと綴ったアイドルの悲痛な叫び フォーリーブス北公次氏による最初の告発本を今こそ読むべき理由
      (文:村瀬まりも、2023年5月23日、PRESIDENT Online)[1]
  • 僕とジャニーズ 闇は深い。戦後最大のタブーを暴く。 (本橋信宏 著、2023年8月16日、イースト・プレス) [1][2][3]


北公次を演じた俳優

  • 水橋研二 (映画『竜二Forever』にて。役名は辻孝史。2002年3月2日公開)


関連項目








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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