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藤島泰輔

     


藤島 泰輔(ふじしま たいすけ、1933年1月9日 - 1997年6月28日)は、日本の小説家、評論家、保守派の論客、日本中央競馬会(JRA)の馬主であり、メリー喜多川の夫。 別筆名:ポール・ボネ。 愛称:たいちゃん。
学習院大学 政経学部 政治学科卒業。 明仁天皇の御学友 (藤島の一学年下)。 日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会各会員。 64歳没。
英文学者の藤島昌平は叔父 (父の弟)。




来歴

  • 東京府東京市の資産家の家庭に生まれる。父は財界の名士で、日本銀行の監事・藤島敏男。母は孝子。 生母・孝子の死後、継母・紀子(父・敏男の後妻)に育てられる。

  • 初等科から大学までを、学習院に学ぶ。

  • 1956年、学習院大学 政経学部 政治学科を卒業し、東京新聞に入社。社会部記者となる。

  • 同年、明仁天皇(当時は皇太子)を始めとする学習院時代の御学友たちを題材にした小説『孤獨の人』で作家デビュー。 同作には三島由紀夫が序文を寄せ、「うますぎて心配なほど」と評価した。 同作は津川雅彦主演で映画化もされて話題となった (1957年1月15日公開、配給:日活)。 そして津川の元叔母の役を、後にジャニーズ事務所と深い関係を持つことになる月丘夢路が演じた。

  • 東京新聞を退社後は作家専業となる。 フランス・パリでの生活体験を元に、在日フランス人という設定の「ポール・ボネ」名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズ、海外生活を題材にしたエッセー、旅行記など、多数の著作を発表した。

  • 1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区に立候補。 新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188,387票を獲得。 法定得票数に達したものの66位で落選した。

  • 1992年、今上天皇の中国訪問に反対する小田村四郎、大原康男、小堀桂一郎、中村粲らによる「ご訪中問題懇話会」が組織されると、谷沢永一、古山高麗雄らと共に賛同。 訪中反対の意見広告に名を連ねる。

  • 1996年に食道癌の告知を受け、翌1997年6月28日に都内の病院で逝去。 64歳没。 晩年まで娘・ジュリーのことを気にしており、最期の言葉は「早く結婚するよう言ってくれ」であった。 なお、泰輔の著作の権利は、娘のジュリーが継承した。

  • 藤島家之墓は長らく豊島区の霊園にあったが、2019年6月に和歌山県北部の高野山真言宗総本山金剛峰寺の奥之院参道の墓地にメリー喜多川が億単位の金をかけて改葬した。


人物

  • 明仁天皇は学習院時代の御学友 (藤島の一学年下)。共にヴァイニング夫人ことエリザベス・グレイ・ヴァイニングの教育を受けた。 但し大学卒業後は明仁天皇とは疎遠となった。

  • 学習院の先輩で兄貴分だった三島由紀夫と親しくしていた。 三島からは、「君は皇太子の友達なんだから直接意見してきたらどうか」と度々からかわれていた。

  • 三島の自決以後は、藤島も民族主義的意識を強めた。保守系の評論家としても活動し、月刊誌『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿した。

  • ジャニーズ事務所の後見人として知られる小佐野英子は、女子学習院(後の学習院女子高等科)を卒業しており、藤島とは旧知の仲。

  • 藤島には“韓国ロビイスト”と呼ばれる一面もあった。 1974年に「日本ペンクラブ」を代表する形で白井浩司と共に韓国を訪問。 朴正煕大統領の独裁政権を鋭く批判していた韓国の詩人・思想家の金芝河(キム・ジハ)への死刑判決に対し、「金芝河の有罪は文学活動ではなく政治活動によるもの。 よって言論弾圧ではない」と発言して物議を醸す。 これにより、ペンクラブからは有吉佐和子、司馬遼太郎、立原正秋などが脱会し、理事だった安岡章太郎や阿川弘之が辞意を表明するなど、運営に混乱をきたした。 なお、金芝河の投獄に対しては、サルトルや大江健三郎、鶴見俊輔などによる国際的釈放要求の声が沸きあがり、1980年12月に釈放されている。

  • 無事是名馬と言われ、4億円を稼いだ競走馬「ランニングフリー」を始め、数々の馬を所有した馬主、長者番付の常連で、資産家としても知られた。 所有馬の中には、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「光GENJI」から引用した「ヒカルゲンジ」という名前の馬もあった。

  • 通常は妻子と共に六本木鳥居坂の高級マンション(正確には芋洗坂のふもと通り沿い。同マンション内に部屋を3つ保有)で暮らしていたが、アメリカ、フランスなどにも別宅を持っていた。

  • 頻繁に海外旅行をした旅行家であり、訪問国は実に80ヶ国を越える。1970年にはエベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤにも遠征。 翌1971年9月からの2年間は、アメリカ・フロリダ州に移住していた。

  • ふくよかだった中年の頃の顔は、俳優の伊藤克信に酷似していた。


ポール・ボネ (Paul Bonet)

  • 『不思議の国ニッポン』(角川書店・角川文庫)をはじめとする数十冊の著作がある。 “在日フランス人”という触れ込みだったが、その正体は藤島泰輔の筆名である。

  • 1980年代の日本国内、或いは海外の事件・風潮について、歯に衣着せぬ筆致で論じる一方、極端な「東京至上主義」と指摘される声もあった。 月刊誌『正論』などにも論考を寄稿している。

  • 1996年刊行の『さよなら、不思議の国ニッポン 在日フランス人の眼』 (ダイヤモンド社)を最後に、フランスに帰国したことになっている。


家族

  • 2度結婚している。 まず、藤島の母親が星野立子(高浜虚子の次女)の門下生だったという縁から、朝日放送東京支社の編成局で働いていた高浜虚子の孫娘・朋子を紹介され、1962年に見合い結婚。 当初は夫婦円満であったが、アバンチュール好きの青年・藤島と、万事堅実派の才媛・朋子は、次第に性格的な食い違いが目立ち始める。 そんな折、以前からの友人であった、5歳年上でジャニーズ事務所の副社長を務める日系二世、メリー喜多川と1964年に再会し、交際を開始 (当時、藤島は31歳、メリーは36歳)。 そして1966年7月20日、メリーとの間に娘・藤島ジュリー景子が産まれる。1972年、長かった夫婦別居生活の末、朋子と正式離婚。 その後、メリーと再婚し、作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られた。
    メリーは元々、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあったカウンターバー「SPOT」を経営。 藤島はそのバーの馴染み客であった (当時は東京新聞記者)。 藤島がメリーと交際していた時期は、まだ藤島が前妻との結婚状態にあったことから、その不倫問題をマスコミに報じられたりもした (『週刊新潮』1974年9月5日号、他)。

  • ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川は義弟に当たる。 藤島は草創期のジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など自身の知己も紹介、ジャニー社長の業界関係者への人脈拡大を手助けしたと言われる。

  • 長女はジャニーズ事務所副社長、兼ジェイ・ストーム社長の藤島ジュリー景子 (1966年7月20日生まれ)。 景子のアメリカ留学に同行し、一時アメリカで一緒に生活していた。
    なお、景子は母親のメリー喜多川の考えにより、少年隊東山紀之と婚約させられていた時期があったが、2004年に芸能界とは無関係の一般男性と結婚。男性は婿養子として藤島家に入った。 そして景子は同年の暮れに、泰輔・メリー夫妻の孫となる女児を出産している。


著書

  • 孤獨の人 (1956年:三笠書房) - デビュー作
    • 孤独の人 (1989年2月、ネスコ・文藝春秋) - 再刊
    • 孤独の人 (1997年3月、読売新聞社「戦後ニッポンを読む」) - 再々刊
    • 孤獨の人 (2012年5月、岩波現代文庫) - 再々々刊
  • 真紅の人 (1957年、三笠書房)
  • 黒の魅惑 (1957年、大日本雄弁会講談社「ロマン・ブックス」)
  • アフリカ紀行 (1958年、小山書店新社)
  • アンコールの帝王 クメール文化の謎 (1960年、展望社)
  • ヘソまがり太平記 (1964年、読売新聞社「サラリーマン・ブックス」)
  • (続)ヘソまがり太平記 (1965年、読売新聞社「サラリーマン・ブックス」)
  • 日本の上流社会 高貴なる秘境を探検する (1965年、光文社「カッパ・ブックス」)
  • (続々)ヘソまがり太平記 (1966年、読売新聞社「サラリーマン・ブックス」)
  • ホラふき太平記 (1966年、読売新聞社「サラリーマン・ブックス」)
  • ヘソまがり太平記 決定版 (1966年、読売新聞社)
  • 男の契約 (1966年、秋田書店「サンデー新書」)
  • 忠誠登録 (1967年、読売新聞社)
  • 心臓英語のすすめ (1969年、文芸春秋「文春ビジネス」)
  • 上流夫人 皇室をいろどった女性 (1969年、サンケイ新聞社出版局)
  • 白い日本人 (1969年、講談社)
  • 青い群島 (1969年、報知新聞社)
  • ピガールの恋人 (集英社、1970年)
  • 上流社会 小説 (1970年、講談社)
  • 青春の座標 (1972年、PHP研究所「PHP青春の本;6」)
  • よくも悪くも日本人 (1972年、実業之日本社)
  • 天皇・青年・死 三島由紀夫をめぐって (1973年、日本教文社)
  • もとのもくあみ (1973年、白馬出版)
  • 男性的旅行論 (1975年、日本交通公社出版事業局)
  • ハローアメリカ (1976年、国際商業出版)
  • 藤島泰輔大冒険 ロマンを求めてヒマラヤ・アメリカ (1977年5月、鷹書房)
  • 戦後とは何だ 日本の選択すべき道 (1981年6月、マネジメント社)
  • ヘソまがり親父に乾杯! (1982年1月、三天書房)
  • 中流からの脱出 新しいステータスを求めて (1986年3月、ダイヤモンド社)
  • 東京山の手の人々 (1987年6月、サンケイ新聞社)
  • クロス・カルチャーの時代 異文化交流を事業化する男・山内庸生
       (1987年9月、IN通信社)
  • 馬主の愉しみ ランニングフリーと私 (1991年10月、草思社)

共著、編著、共編著

  • 『世界の旅』第3巻 「猛獣と草原の国を行く」
      (大宅壮一・桑原武夫・阿川弘之編、1962年、中央公論社)
  • 『世界の旅』第8巻 「アンコール」 (大宅壮一・桑原武夫・阿川弘之編、1962年、中央公論社)
  • 結婚と家庭 (石井好子との共著、1969年、雄鶏社「幸福への対話 第4巻」)
  • 日々を新たに 松下幸之助,藤島泰輔・対談 (松下幸之助との共著、1970年、文藝春秋)
  • 日本人の失ったもの 対談集 (1975年、日新報道)
  • 忠誠登録 (依光隆との共著、1976年3月、国土社・ノンフィクション全集 11)

翻訳

  • ウルトラ・リッチ 超富豪たちの素顔・価値観・役割
      (V・パッカード著、1990年1月、ダイヤモンド社)
  • 名画の経済学 美術市場を支配する経済原理
      (ウィリアム・D・グランプ著、1991年9月、ダイヤモンド社)

「ポール・ボネ」名義の著書

  • 『不思議の国ニッポン』シリーズ Vol.1 - Vol.22 (1975年 - 1996年、ダイヤモンド社)
    • 『不思議の国ニッポン』シリーズ Vol.1 - Vol.21
        (1982年 - 1996年、角川書店「角川文庫」、再刊)
  • だから日本は叩かれる (角川書店「Kadokawa books」、1987年10月)
    • だから日本は叩かれる (角川書店「角川文庫」、1989年5月、再刊)
  • 沈まぬ太陽ニッポン 豊かさとの闘い (角川書店、1990年8月)
    • 沈まぬ太陽ニッポン 豊かさとの闘い (角川書店「角川文庫」、1992年12月、再刊)


参考文献

  • 「検証と総括」天皇陛下ご訪中問題
      (ご訪中問題懇話会編、1992年12月、展転社 「てんでんブックレット1」)
  • 三島由紀夫全集 27 「藤島泰輔 著 「孤独の人」 序」 (三島由紀夫 著、1975年、新潮社)
  • 三島由紀夫全集 35 「うますぎて心配 (藤島泰輔 著 「孤独の人」)」
       (三島由紀夫著、1975年、新潮社)
  • 三島由紀夫「以後」 日本が「日本でなくなる日」 (宮崎正弘 著、1999年10月、並木書房)
  • 追悼・メリー喜多川さん。家族への愛も、タレントへの愛も深い人でした 若き日を知る記者が素顔を語る (文:風間博、2021年8月23日、婦人公論.jp)[1]


外部リンク








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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