小坂まさる
小坂 まさる(こさか まさる、本名:小坂 勝秀、1957年9月27日生まれ)は、自由民主党 東京都通信産業支部 会計責任者、法務省人権擁護委員、経営コンサルタント。
元・タレント、歌手、俳優。 通名:小坂
大阪市天王寺区生まれ、大阪府河内市 → 4歳から大阪市住吉区育ち。 ジャニーズJr.を経て、「メッツ」を結成した。
愛称は、ジャニーズ事務所内では「ヒデ坊」、ファンからは「マチャル」。
なお、次男の小坂真郷も元ジャニーズJr.で、「M.A.D.」のメンバーだった。
(2018年3月19日付)
(2019年3月29日付)
(2020年3月30日付)
所属事務所
- ジャニーズ事務所
- バーニングプロダクション
- カワダブラザースカンパニー
- プラスワン
ジャニーズ時代の参加ユニット
- ジューク・ボックス・ジュニア (正確にはユニットではなく、当時のジャニーズJr.全体を指す別称)
- ジューク・ボックス
- ジャニーズ・ジュニア (第1期生)
その後の参加ユニット
学歴
万代 幼稚園 (大阪市住吉区)- 大阪市立住吉小学校
- 大阪市立住吉中学校 (部活は器械体操部)
- 私立堀越中学校
- 私立堀越高等学校
- 私立日本大学高等学校 (通称:日大日吉、日大横浜学園)
来歴
- 1957年9月27日、大阪市天王寺区の逓信病院にて、2,300グラムという低体重で産まれる。
- 1972年6月、大阪市立住吉中学校3年生の時に、よみうりテレビの新番組『GO!GO!ヤング』の公開収録を友達と豊中市民会館に観に行き、一般参加のリンボーダンス大会に飛び入りで参加した所、それまでの最高記録であった45cmをクリアして見事に優勝した。 優勝賞品はグアム旅行だった。
それから半月後、東京でその様子をたまたまテレビで観ていたフォーリーブスの北公次が小坂のことを気に入り、社長のジャニー喜多川に推薦。 そしてジャニーが小坂宅の電話番号を調べて電話し、大阪フェスティバルホールでのフォーリーブスのコンサート、および食事に招待する。 その結果、小坂は同年9月21日に上京してジャニーズ事務所に入所することとなった。
- 『週刊少女フレンド』(1973年9月4日号、講談社)にて雑誌の表紙に初掲載。(一番下段が小坂。一緒に写っているのはフォーリーブス、郷ひろみ、葵テルヨシ)
当初は事務所期待の有望株としてソロで売り出されていたが、この頃から「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」の枠組に入れられる。
それでもなお、雑誌のピンナップでは「小坂まさる & ジャニーズJr.」と紹介されたり、ソロでもピンナップ掲載 (『近代映画』1974年5月号)。
そして小坂だけがテレビドラマに多数出演し、1974年4月からはバラエティ番組『君こそスターだ!』(フジテレビ)にもソロでレギュラー出演するなどの待遇を得ていた。
- 1974年夏、「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」が、2つのグループに分割。
一つはフォーリーブスのコンサートのバックダンサーチームとして作られた3人組で、「ジュニア・スペシャル」という新たなグループ名が与えられた。
残りの6名は、特に新しいグループ名は与えられず、元の「ジャニーズ・ジュニア」名義のままで郷ひろみのコンサートのバックを務めた。
小坂は郷ひろみの方のバックに付いていたが、フォーリーブスの北公次を尊敬していたために「フォーリーブスのバックで踊りたかった」という不満を抱いていた。 また、ジュニア・スぺシャルのメンバーに選ばれなかったことについて近藤純市も、「“ジュニア・スペシャル”の方が特別に聞こえる。僕らはハンパもんにされたみたい」と漏らすようになっていた。
そして、夏のコンサートを終えた1974年9月、ついに小坂は近藤と共にジャニーズ事務所からの退所を宣言し、それまで住んでいたジャニーズの合宿所からも飛び出した。 2ヶ月後の同年11月には、同じくジュニア1期生の山縣孝良、鈴木寛、吉田義久、柏木孝夫らも後に続き、一斉にバーニングプロダクションへと移籍した。 バーニングは、翌1975年3月に先輩の郷ひろみが移籍することが既に決定しているプロダクションだった。
- バーニングへ移籍後、元ジュニアたち6名は新グループ「メッツ」を結成。
1975年2月23日に大阪の枚方市民会館にてステージデビュー。 同年11月25日にはレコードデビューも果たした。
- 1976年12月29日にメッツが一時解散。
- 小坂はソロで芸能活動を続け、1977年2月12日には大阪千日前・ユニバースにて1時間のワンマンショーも行い、演歌も歌った。
- 1978年、「カワダブラザースカンパニー」に移籍し、メッツを復活させるも、2枚のシングルと1枚のアルバムをリリースしたのみで、翌1979年に再び解散。
その後、カワダブラザースカンパニーから「プラスワン」に移籍。 数々のテレビドラマに出演した。
- 芸能界を引退後は「小坂産業」を設立し、新宿二丁目にパブスナック、六本木にレストランをオープン。
- 小学生の頃からの夢だった政治家になるべく、1983年に自民党に入党。 アフリカ救済運動にも参加。
- 1984年、ボランティアグループ「技術伝導センター」を設立。
このセンターの主旨は、身体障害者や高齢者の社会的自立を促すことで、まず彼らに対し、コンピューターの使い方や着物の着付けなどの技術を持っている人たちが無償で教育を施し、技術を覚えた者には就職先も斡旋しようとするものだった。
- しかし、「技術伝導センター」で身体障害者や高齢者に教育を施しても、彼らを受け入れてくれる就職先が無かったため、もっと広くに活動を宣伝するため、経営していた六本木のレストランを売却して資金を作り、1985年7月7日の東京都議会議員選挙に、六本木を本拠地とした港区から27歳で立候補した。
ただし公示の2週間前に立候補したため、自民党の公認に間に合わず、無所属での出馬となった。
小坂の選挙ポスターには、「日本の伝統技術を伝える!」とのキャッチコピーが添えられた。
しかしこのポスターは、ファンなどによって片っ端から剥がされてしまった。
そして選挙の結果は落選。 これらの模様は、雑誌『週刊平凡』(1985年6月28日号)、『ZOOM in』(1985年9月号)、『セクシーフォーカスSCOOP』(1985年9月号)に掲載された。
(『セクシーフォーカスSCOOP』1985年9月号)
- 1985年7月22日、東京都港区三田で、便利屋「小坂まさる おタスケマンセンター」を開業。 約50名の大学生アルバイトを雇っていた。
- 1985年11月、今度は東京都港区議会議員の補欠選挙に立候補するも、やはり落選。
- その後、「一般社団法人 全国教育問題協議会」の常任相談役に就任。
「子供の頃から福祉に関心を持つような教育の場を作る」をスローガンに、教育問題に取り組む。
- 1987年4月、改めて東京都港区議会議員選挙に立候補するも、やはり落選した。
- 1980年代後半に結婚。
男児を2人もうけたが、1990年代に離婚した。
その後は、地元の大阪でナイトクラブを経営。 週刊誌の「あの人は今」の記事では、女性ホステスに囲まれながらハーレム王の様なポーズをとっている姿が紹介された。
- 2000年代からは、都内で会社役員(経営コンサルタント)に。
WEB制作会社「アンビーマテリアル株式会社」(2008年4月創業、2011年4月設立)などをコンサルティングした他、「特定非営利活動法人 青少年ワールドサポート21」の役員(代表世話人)や、美容クリニック「紀尾井町プラザクリニック」の顧問理事も務めた。
- 2023年10月、ジャニー喜多川の性的児童虐待問題を受け、浅草の「マルベル堂」が自主規制により、性犯罪者「ジャニー喜多川」を想起させる名称のグループだとして、小坂も写っている「ジャニーズ・ジュニア」の生写真のネット上での販売をすべて禁止にする。[1]
人物
- 芸能活動をしていた時期に、恐喝などで警察に数回逮捕されている。(雑誌『ZOOM in』1985年9月号より)
- 「メッツ」時代から、髪型をパンチパーマのリーゼントにしたり、当時の男性アイドルとしては珍しく耳たぶ(左側)にピアスの穴を開けるなど、不良性を前面に押し出していた。
- 1975年9月15日、東京郵便貯金会館で行われた男性アイドルグループ「フレンズ」の解散公演に、ジャニーズ時代の仲間・葵テルヨシと共にゲスト出演。
- 政治への関心が非常に強く、自ら東京都議会議員選挙に出馬した他、「自由民主党同志会」や、中曾根康弘が最高顧問を務める「一般社団法人
春風 の会」に所属し、自由民主党 東京都通信産業支部の会計責任者を務めたり、鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」、野田聖子の資金管理団体「二十一世紀の会」、笠浩史の資金管理団体「笠ひろふみ応援団」、稲田朋美の資金管理団体「ともみ組」に対し、寄附活動を行っている。
また、「佐藤ゆかり出版記念パーティー」、「野田聖子さんのさらなる飛躍を期待する会」、「道州制で日本を拓く会」(主催:政治団体「良知会 」)、「平沢勝栄政経文化セミナー」など、数々の政治資金パーティーにも出席し、やはり寄附を行っている。
この他にも、法務省「東京人権擁護委員協議会」に所属する人権擁護委員の肩書きを持ち、差別やいじめに関する相談をボランティアで受けている。
- 政治活動に携わる際には、「小坂
勝 」や、「小坂健 」の通名を用いることがある。
- 政治活動を通し、森田健作との親交が非常に深い。
- 小坂家は代々全員「金光教」の信徒。 また、父親は脱サラをした後、大阪市住吉区で不動産会社「伸興開発」を経営。 母親は電電公社に勤めていたため、小坂はおばあちゃん子だった。
- 兄弟は弟が2人 (4歳下と5歳下)。 4歳下の弟(1961年生まれ)は、五木ひろしの付き人を経て俳優となった小坂正道。
- 山口百恵の1980年の著書『蒼い時』の「裁判の章」にて、小坂の名前が登場する。
主な出演作品
バラエティ番組
ジャニーズ時代
- 君こそスターだ! (1974年4月 - 、フジテレビ) レギュラー
バーニング時代
- 金曜10時!うわさのチャンネル ! ! (1977年4月 - 、日本テレビ) レギュラー
-
小坂は当番組の中で、バリカンで丸坊主にされてしまった。
- 東海テレビのバラエティ番組にて司会者 (1977年4月 - )
テレビドラマ
ジャニーズ時代
- 木下恵介アワー 『おやじ山脈』 (1973年、TBS)
- ぼくは叔父さん (1973年10月 - 1974年3月、日本テレビ)
- ボクは女学生 (1973年10月5日 - 1974年3月29日、フジテレビ) 中学生の藤里マサル役
- ボクは恋人 (1974年4月5日 - 9月27日、フジテレビ) 小坂は7月からの出演
バーニング時代
- 元禄太平記 (1975年4月20日 - 11月30日、NHK総合・大河ドラマ) 第16・19・42・46・48話にて矢頭右衛門七役
プラスワン時代
- 獅子の時代 (1980年8月10日、NHK総合・大河ドラマ) 第32話「明治6年の政変」にて書生役
- 特撮野郎アクションシリーズ! ぼくら野球探偵団 (1980年8月11日、テレビ東京)
-
第14話「珍ロボット ウルトラ28号の秘密」にて店員役
- 1年B組新八先生 (1980年8月15日、TBS)
-
第18話「傷だらけのお説教」にて新八先生と揉める男たち・川上役
- ウルトラマン80 (1980年9月24日、TBS)
-
第26話「タイムトンネルの影武者たち」にて小太郎役
- 噂の刑事トミーとマツ (1980年10月8日、TBS) 第44話「トミマツまっ青、情無用の新課長」にゲスト出演
映画
ジャニーズ時代
- 急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS (1974年7月20日、東宝/ジャック・プロ、監督:小谷承靖)
-
公開前のタイトルは『僕たちの明日』。 孤児院の子供役で出演。 舞台挨拶にも参加した。
プラスワン時代
- 聖女地獄絵図 (1980年5月17日、東映セントラルフィルム)
舞台
ジャニーズ時代
- フォーリーブス イン クリスマス (1972年12月24日&25日、名古屋・御園座)
-
「ジューク・ボックス・ジュニア」のメンバーとして出演。
第1部・『ミュージカル フォーリーブス物語 〜 星に帰った若者』
(作・構成・演出:ジャニー喜多川、振付:小井戸秀宅)
第2部・『ヒット・ヒット・ヒット ゴールデンステージ』 - フォーリーブス物語 〜 星に帰った若者 (1973年1月)
-
「ジューク・ボックス・ジュニア」のメンバーとして出演。
- 郷ひろみヤングミュージカル 『走れ あしたに ! !』
-
1974年夏の郷ひろみのコンサート内でのミュージカル。
ステージ
ジャニーズ時代
- フォーリーブス エキサイティングショー (1973年4月)
-
ジューク・ボックスのメンバーとして出演。
- 第49回 日劇ウエスタン・カーニバル 「フォーリーブスショー」 (1973年5月4日、日本劇場)
-
小井戸秀宅と共に北公次が振付を担当。 音楽担当は高橋洋一。
- 第49回 日劇ウエスタン・カーニバル 「郷ひろみショー」 (1973年5月5日&6日、日本劇場)
- フォーリーブスの各コンサート(1973年 - 1974年)
- 郷ひろみの各コンサート (1973年 - 1974年)
バーニング時代のソロステージ
- 1時間のワンマンショー (1977年2月12日、大阪千日前・ユニバース)
外部リンク
Text is available under
We welcome links from other websites.
Copyright of my site's all original sentences © Archive of STARTO. No rights reserved.
Copyright of my site's all original sentences © Archive of STARTO. No rights reserved.