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ジャPAニーズ

 
   


ジャPAニーズ (ジャパニーズ)は、かつてジャニーズ事務所に所属していたバックダンスグループ。
愛称:ジャPA。 1978年1月結成。 1982年5月18日解散。
なお、ジャPAニーズの後には、派生グループとして 「ジャPAニーズ・ジュニア」 と 「ジャPAニーズHi!School」 が誕生した。




グループ名変遷

  1. インフォメーション・ブラザーズ (略称:インフォメーションズ
  2. ディスコ・メイツ 
  3. ジャパニーズ 
  4. ジャPAニーズ (1981年より)


メンバー

  • 細野謙治 (愛称:トミー、トミーリーダー。 後の小林謙治。 二代目リーダー 兼 マネージャー。 振付担当)

       

  • 吉野明男 (愛称:ボビー。 後のボビー吉野Bobby吉野。 トミーと同じく振付担当)

       

  • 乃生佳之 (愛称:のおちん

  • 板野俊雄 (愛称:トシちゃん、イタトシ。 1980年6月1日から加入)

       


脱退メンバー

  • デビッド・宮原 (愛称:デビッドデビ。 板野と交代で脱退)
  • 舟喜豊 (愛称:エディーゆたか。 板野と交代で脱退)

       

  • ニック (初代リーダーだったが、結成から間もなくして脱退)
  • 他1名 (グループがジャニーズ事務所に所属してすぐに脱退)

サポートメンバー



概要

  • 1974年、ダンスグループ「FUNKY DOLLS」が、バンド「BIB (ブラザーズ池袋バンドの略)」とのパッケージで、池袋・ロサ会館 7Fの大型ディスコ「ADAMS APPLE」でステージデビューする。 FUNKY DOLLSは日本におけるロックダンス、ロボットダンス、ソウルダンスなどの先駆け的なチームで、男3人、女1人の4人組。 リーダーはジョニー。 女性メンバーの愛称は「お京」。 その後、FUNKY DOLLSは全国のディスコやライブハウスでダンスショーを行うようになり、全米チャート1位のコーラスグループ「The Hues Corporation」の来日公演が1975年8月31日に新宿歌舞伎町・東宝会館 4Fのキャパ1500人収容の大型ディスコ「Big together」で行われた際には、オープニングアクトも務めた。
    ディスコの全盛期だった1976年、FUNKY DOLLSはダンスコンテストの優勝を軒並み奪い、話題となる。 特に美容師志望の少年・ボビー(本名:吉野明男)は、ファンキーを踊るとカミソリのようなキレがあったことから、“カミソリボビー”とまで呼ばれていた。 やがて実力を認められたボビーは、六本木のディスコでショーの構成を始める。 そしてそのディスコに客としてよく通っていたのが、当時大学生で役者志望だった細野謙治(トミー)だった。 トミーはその後、DJ活動を開始。

  • 1977年、全国のメジャーなダンスコンテストの入賞者だけが出場できる「プレイボーイダンスコンテスト」にボビーが出場し、男性個人の部で優勝。

  • 1978年1月、ボビーとトミーが、高田馬場のディスコ「リチャード三世」の常連客だったニックたちと知り合って意気投合し、6人組のソウルダンスグループ「インフォメーション・ブラザーズ (略称:インフォメーションズ)」を結成。 ほぼ毎日4時間のレッスンを経て、同年2月より活動を開始し、新宿の「ジャンボディスコ プレイハウス」でのショーを皮切りに、関東のあらゆるディスコに出演する。 その中には、新宿歌舞伎町・東宝会館 7Fの、キャパ3000人収容で当時世界最大と言われたダンスフロアのアメリカンディスコ「トゥモローU.S.A」(通称:ユサ)にて、インフォメーションズが主役となって行った一夜限りのノーギャライベント「オカマダンス 対 ファンキーダンス」などもあった。 (このイベントを手掛けたのは、DJや、ダンスチーム「BAD CHILDREN」のダンサーなどで活動し、当時の都内のディスコシーンで名を馳せていたRONNY)
    なお、インフォメーションズの初代のリーダーはニックだったが、ニックは途中で脱退し、トミーが2代目リーダーとなった。 (ニックはその後、横山エミーの1979年のデビューシングル『ディスコ・バンピレラ』の男性2人組のバックダンサーの1人に)

  • やがて、インフォメーションズのステージに魅了された乃生佳之(ノオチン)が「僕も入りたい!」と頼み込んで加入し、再び6人組となる。
    3人組の黒人コーラスグループ「The Softones」と、Lockerの名手・Jimmy Scoo B Doo(本名:James Foster)率いる6人組の黒人ダンスチーム「Something Special」の来日ジョイント公演(1978年1月12日〜2月24日の日本全国ツアー)の中で、インフォメーションズが前座を務める機会があり、これが絶賛され、Something Specialのアメリカ公演にも招かれて共演した際には、ビルボード誌に取り上げられるほどの実力派グループとなっていた。

  • このインフォメーションズがジャニーズ事務所入りした経緯について、「よりメジャーな活動を目指してジャニーズ事務所に売り込みの電話をかけた結果、面談に応じて貰えることになった」とだけ簡潔にメンバーたちは後に語っているが、実際の入所経緯は少し違う。
    まず、2代目リーダーの細野謙治が、よりメジャーな活動を目指して渡辺プロダクションやホリプロなどに売り込みの電話をかけるも、全く取り合ってもらえないでいた。 一方で、当時(1978年)は、日本でもアース・ウィンド&ファイアーのシングル『宇宙のファンタジー』が大ヒットしていた。 そしてアースの日本リリース版レコードを担当していたディレクターが、「CBS・ソニー」の殿井隆だった。 その繋がりで、CBS・ソニー所属のアーティストであるフォーリーブスが、同曲を日本語でカバーすることになった (発売されたのは同年7月1日)。
    これを機に、CBS・ソニーはプロモーションの一環で同曲を課題曲としたダンスの全国大会「ファンタジーダンスコンテスト」を企画。 日本全国のダンサーたちが呼び集められ、同年5月22日(月曜日)に渋谷ビデオスタジオで開催された。 そのコンテストの模様はテレビ収録もされ、フォーリーブスのおりも政夫が司会を務めていたバラエティ番組『23時ショー』(テレビ朝日)にて同年5月31日に放送された。 そしてこのコンテストに、インフォメーションズも参戦することとなった。
    インフォメーションズは本格派のソウルダンサーだったため、コンテストの趣旨であるファンタジーダンスとは毛色が違い、大会では選外となった。 しかし、このコンテストを観ていたジャニーズ事務所のスタッフによって声をかけられた。 当時のインフォメーションズの風貌は、アフロヘアに日焼けした肌、ヒッピーの様な服装、そして髭をたくわえたメンバーも居るなど、とてもアイドル事務所には似つかわしくないものだったが、六本木のジャニーズ事務所の地下の「アトリエ・フォンテーヌ」で行われた役員面談でダンスの実力を披露した所、ジャニー喜多川に「Youたち面白いねぇ。フォーリーブスの解散コンサートがあるから踊ってよ」と認められ、事務所入りを果たした。 つまり、自らジャニーズ事務所に売り込んだというのは誤りで、最初のきっかけはジャニーズ側からの声がけであり、本格派のソウルダンサーを自負していたメンバーたちは、むしろジャニーズのアイドル系の仕事に対して常に悩んで葛藤し、かつての先輩・RONNYに相談しにも行っており、後に半分ものメンバーが辞めて行くこととなる。 [1]

  • ジャニーズ事務所に所属した際、グループ名を「ディスコ・メイツ」に改名。 この段階でメンバーが1名脱退し、5人組となる。 1978年7月26日から8月31日まで、フォーリーブスの解散コンサートツアーに帯同。

  • 同年秋より、ジャニー喜多川の案で “世界に通用するように” と、グループ名が更に「ジャパニーズ」へと改名され、川ア麻世の専属バックダンサーとなる。

  • 同年12月12日、イギリスのレコード会社・EMIが主催(日本予選の主催は東芝EMI)の「第1回 世界ディスコダンス選手権大会」の決勝がロンドンのエンパイア・ボールルームで開催され、世界37ヶ国の代表ダンサーの中から日本人のテディ・団(本名:団忠昭。私立大阪鉄道高校〔応援部〕卒)が優勝。 そしてその模様を日本でテレビ放送した際の司会者が、おりも政夫だった。 当時はディスコブームで、日本全国に次々と新しいディスコがオープンしており、テディ・団は1979年1月より各地のディスコのオープニングショーに招かれるようになった。 その全国パフォーマンスショーの振り付けを、ボビー吉野が手掛ける。

  • 1979年4月15日〜6月24日、日本テレビのダンス番組『ミュージック・ボンボン』に、ジャパニーズがテディ・団や「ピラミッド」と共にレギュラー出演。
    また、同年4月8日からはNHK『レッツゴーヤング』にもバックダンサーとしてレギュラー出演。 以後、1982年3月まで、倉田まり子『HOW!ワンダフル』(1979年夏)、『イヴニング・スキャンダル』(1980年)、『恋はAmi Ami』(1981年)、 比企理恵『恋のローラー・ブーツ』(1979年)、 麻生よう子『恋のサバイバル2』(1979年9月9日)、 松田聖子『裸足の季節』(1980年春)、 松原みき『ニートな午後3時』(1981年)、 石野真子『思いっきりサンバ』(1981年3月22日)、 松田聖子&河合奈保子『ザナドゥ』(1981年4月12日)、 日のり子『もう一度・ブラックコーヒー』(1981年11月15日)、 柏原よしえ『恋人たちのキャフェテラス』(1982年2月7日)ほか、数多くの歌手のバックを務めた。

  • 1980年、デビッド・宮原と舟喜豊が脱退。 入れ替わりで同年6月1日に元「JJS」の板野俊雄が加入し、同日よりジャパニーズは田原俊彦の専属バックダンスグループとなった。
    3オクターブ半の高さの歌声を持つ板野は、ジャパニーズに入る前に、まだ結成前だったロックバンド「LOUDNESS (ラウドネス)」の初代ボーカルにも誘われていたが、それを断ってジャパニーズの方を選んだ。 歌唱力のある板野が入ったことで、ジャパニーズはダンスだけでなくバックコーラスでも活躍するようになった。

  • 1981年、グループ名表記を「ジャパニーズ」から「ジャPAニーズ」に改名。
    なお、ジャPAニーズは田原俊彦だけでなく、近藤真彦のコンサートのバックや、ひかる一平の歌番組出演時のバックにも付いたことがあった。

  • メンバー間での価値観の相違が絶えず、1982年5月18日、渋谷公会堂での田原俊彦のコンサートにて解散した。(田原のシングル『君に薔薇薔薇・・・という感じ』までバックに付いていた)

  • 2023年10月、ジャニー喜多川の性的児童虐待問題を受け、浅草の「マルベル堂」が自主規制により、性犯罪者「ジャニー喜多川」を想起させるグループ名だとしてジャPAニーズの生写真のネット上での販売をすべて禁止にする。[1]


エピソード

  • バックダンスグループだったジャPAニーズにも、ファンによるジャPA専門の親衛隊が存在した。

  • 田原俊彦の『恋=Do!』のバックでの、女の子の着ぐるみ「チャチャ人形」の役は、乃生が担当した。

  • 某メンバーがアムウェイをやっていた。

  • ジャPAニーズの派生グループとして、1982年に「ジャPAニーズ・ジュニア」、更に2010年には「ジャPAニーズHi!School」が誕生した。

  • フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした』内の企画「第12回 博士と助手 〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」(2008年3月27日放送)にて、いとうあさこが「「もっとこっち向いていいんだよ」とこちらが気を遣う程背中で踊る田原俊彦のバックダンサー ジャPAニーズ」と、「気がつけばどこを曲げても90°、田原俊彦のバックダンサー ジャPAニーズ」のタイトルで、ジャPAニーズのものまねを2本披露した。


主な出演作品

※ 乃生のソロ出演作については、乃生佳之の項目を参照。

バラエティ番組

  • 23時ショー (1978年5月31日、テレビ朝日、司会:おりも政夫
      「決定日本一!全国ディスコ対抗ファンタジーダンス&DJコンテスト」。 テレビ初出演。
  • ミュージック・ボンボン (1979年4月15日 - 6月24日、日本テレビ)
      毎週日曜夜7時から30分間放送していたダンス番組で、「ピラミッド」と共に出演していた。
  • レッツゴーヤング (1979年4月8日 - 1982年3月28日、NHK総合) レギュラー
  • ヤンヤン歌うスタジオ (テレビ東京) レギュラー
  • たのきん全力投球! (1980年10月9日 - 1983年3月27日、TBS) レギュラー
  • 第8回 オールスター寒中水泳大会 (1981年2月、フジテレビ・火曜ワイドスペシャル)
      「ジャパニーズ」(板野俊雄、吉野明男、細野謙治、乃生佳之)名義で出演。
  • ヨッちゃん・ぼんちのアイドル大集合 ! ! (1981年4月8日 - 9月23日、日本テレビ) レギュラー
  • 第12回 オールスター紅白水泳大会 (1981年7月、フジテレビ・火曜ワイドスペシャル)
      「ザ・ジャパニーズ」(トミー、ボビー、ノーチン、トシオ)名義で出演。
  • たのきん後楽園コンサート -5万人大集合!真夏の祭典- (1981年、日本テレビ)
  • 第4回 新春オールスター水上大運動会 (1982年1月3日、TBS) 「ジャパニーズ」名義
  • 第9回 オールスター寒中水泳大会 (1982年2月、フジテレビ・火曜ワイドスペシャル)
      「ジャパニーズ」(トミー、ノーチン、ボビー、トシオ)名義で出演。

細野謙治

  • さんまのまんま (1989年6月29日、フジテレビ) 大倉利晴と共にゲスト出演
  • お台場明石城 -NOMAD- (2005年、フジテレビ)
      竹内誠 presents 「Yes, I know show (明石家1級試験)」の企画と、2005年9月19日放送の企画「明石家さんまの24分間テレビ」に出演。
  • 明石家さんまの5時間くらいテレビ 「生きとる」 (2005年8月27日、CS・フジテレビ739)

吉野明男

  • STAR ALIVE (『第21回 新春かくし芸大会・第2部』内ドラマ。1984年1月2日、フジテレビ)
      乃生佳之、川ア麻世、田原俊彦、THE GOOD-BYEと共演。 振付:西条満。
  • 出没!アド街ック天国 「京成高砂」 (2007年6月16日、テレビ東京)
  • スッキリ ! ! 特別版 (2013年4月13日、日本テレビ) 「アニー2013 オーディション密着!少女たちの涙」
  • 関ジャム 完全燃SHOW (2015年5月31日、テレビ朝日)
  • 出没!アド街ック天国 「京成高砂」 (2017年2月25日、テレビ東京)
  • あいつ今何してる? (2021年1月27日、テレビ朝日) 妻と共に出演

テレビドラマ

  • 1年B組新八先生 (1980年8月8日、TBS)
      第17話「新八兄貴大行進!」にてディスコの客役

細野謙治


映画


ラジオ

細野謙治

  • 明石家さんまのおしゃべりツバメ返し (1988年10月 - 1991年3月、TBSラジオ、JRN系)
      さんまとトミー以外のレギュラー陣:大倉利晴、伊藤加奈子、奥貫薫
  • ヤンタンスペシャルサンデー 明石家さんまのなんでもこい! (1992年1月 - 9月、MBSラジオ)
      さんまとトミー以外のレギュラー陣:大岩賞介、藤沢めぐみ
  • MBSヤングタウン土曜日 (1992年10月 - 1995年、MBSラジオ)
      レギュラー陣:明石家さんま、玉井健二、加藤紀子。 トミーは不定期でゲスト参加。

ステージ

  • 頑張れ!ニューヤンキース (1978年8月12日&13日、浅草国際劇場)
      「ディスコ・メイツ」名義での出演。 北公次スリー・ヤンキースギャングスと共演。
      ディスコ・メイツは、アースウィンド&ファイアーの楽曲『アフリカーノ』に乗せてダンスを披露。 この曲でのダンスは、後に少年隊にも引き継がれた。
  • ヤング!ロックン・ロール・フィーバー
      (1978年10月27日:「ギャングス」のバックダンサーとして「ジャパニーズ」名義で出演。10月28日&29日:川ア麻世とギャングスのバックダンサーとして出演。日本劇場)
  • サヨナラ日劇FESTIVAL (1981年2月11日、日本劇場)
      たのきんトリオ、ジャニーズJr.と共に出演。
  • 他多数・・・

イベント

吉野明男

  • Bobby吉野&ひろみ 結婚30周年サプライズパーティー (2007年6月24日)
  • 結婚40周年パーティー (2017年10月14日、六本木・DiA tokyo。司会:JP)
  • ボビー吉野×ARATA 「令和の少年隊ダンス論」『令和の少年隊論』(アチーブメント出版)刊行記念 (2021年12月17日、下北沢「本屋B&B」)
      登壇したトークイベント (夫人も会場に同伴)。[1]

WEB

吉野明男

  • ボビー吉野×ARATA 「令和の少年隊ダンス論」『令和の少年隊論』(アチーブメント出版)刊行記念 (2021年12月17日、Zoom。会場は下北沢「本屋B&B」)
      登壇したトークイベントの生配信。[1]


ビデオ

  • 田原俊彦 7 Years' Memory (VHS・Beta、1986年6月19日)
      ジャPAニーズの4人が、田原を囲んでの懐かしトークゲストとして出演。


書籍

※ 乃生に関するものは乃生佳之の項目を参照。

  • 女性セブン (2021年2月18・25日号、小学館)
      ボビー吉野・ひろみ夫妻へのインタビュー記事「ジャニーズの礎を築いた伝説の振付師が選ぶ歴代ダンスNo.1は?」。


外部リンク








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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