Archive of STARTO





松原康行

   
  


松原 康行(まつばら やすゆき 、1967年3月4日生まれ)は、かつてジャニーズ事務所に所属していた元・ジャニーズJr.少年隊の前身グループ「ジャニーズ少年隊」のオリジナルメンバー。
東京都大田区雑色出身。 血液型:O型。 愛称:ヤッちゃん (当初はヤスくん)。 兄弟は姉と妹が一人ずつ。




ジャニーズ時代の参加ユニット



来歴

  • 東京都大田区の雑色で中華料理店「味好 (あじよし)」を営む家族に生まれる。 この店は『月刊明星』の1982年5月号でも紹介され、錦織一清植草克秀も訪れている。 2000年代後半に閉店。

  • 小学生の頃は町の少年野球チームに所属。 中学ではバスケットボール部に1年、サッカー部に1年半所属した。

  • 中学生の時に、4歳上の姉が履歴書を送ったことでジャニーズ事務所に入所。

  • 1981年8月(当時中学3年)に行われた「たのきんファミリー・バカンス ハローツアー」(『月刊明星』で参加者を募集したファンツアー。行き先はハワイとロサンゼルス。主催:小西六写真工業)に、たのきんトリオひかる一平、錦織、植草、東山紀之と共に同行。

  • 帰国後、同い年である東山紀之が高校受験のために活動を一時休止。 残りの3名でテレビ東京の音楽バラエティ番組『ザ・ヤングベストテン』の初収録日(1981年9月23日)に「Bチーム」名義でグループを結成し、レギュラー出演を開始。(後の「ジャニーズ少年隊」→「少年隊」)
    以後、映画やCM、雑誌などで活躍する中、松原は1982年4月スタートのテレビドラマ『3年B組貫八先生』に出演が決定。 一方、ジャニーズ少年隊としてはTBSのバラエティ番組『ピンキーパンチ大逆転』へのレギュラー出演が決まり、松原だけがグループのスケジュールと合いづらくなるため、1982年3月にジャニーズ少年隊を脱退。 翌月、都立の定時制高校へと進学。 そして松原と入れ替わりで、同じく高校受験を終えた東山紀之が「ジャニーズ少年隊」のメンバーとして加入した。
    なお、松原は東山からのイジメに苦しんでおり、何度も胸ぐらを掴まれて脅されていた。 東山が受験を終えて事務所に戻って来た1982年3月頃に合宿所の食堂で松原の胸ぐらを掴み、「お前が少年隊にいられるのは俺のおかげ(俺が今まで休んでいたおかげ)なんだからな!」と怒鳴っている現場も、後輩のジャニーズJr.だった石丸志門が直接目撃している。

  • 松原は貫八先生のオーディションに受かった際、事務所の先輩たち(『金八先生』での田原俊彦、『仙八先生』での薬丸裕英)が演じてきたようなツッパリ役が貰えると期待していた。 しかし実際に回ってきたのは優等生の役で、非常に落ち込んだと当時の雑誌インタビューで語っている。 それでもどうしても不良役にこだわり、制服の第一ボタンを外して撮影に挑んだ所、スタッフに注意されてしまい断念。 なお、不良役はジャニーズ事務所のタレントではない辻野幸一が演じた。

  • TBSドラマ『3年B組貫八先生』の出演終了と共に芸能界を引退。 その理由として、表向きには「病気のため」とされたり、松原本人はファンに対して「喫煙がバレたせいでクビになった」などと説明していたが、実際は『貫八先生』で共演したアイドル候補の屋木里美(秋田令子役。1966年5月6日生まれ。川越市出身)と恋仲になり、駆け落ち騒動を起こして、ジャニー喜多川に「仕事か?女か?」と問われて「女」と答えたのが引退の理由だった。
    『貫八先生』の劇中でも、松原が使用していた学生カバンには、「ENDLESS LOVE SY MY LOVE」や「SATOMI」などの落書きが堂々とされているほどだった。

  • しかしその後、屋木とは破局。 松原はファンの女性と結婚し、2013年12月27日まで横浜市港北区新羽町にて、メーカー/製造系の会社「株式会社 三翔製作所」を経営していた (少年隊の人数が「三」、少年隊の1stアルバムのタイトルが『翔』)。 この他、一部ではコンビニの店長をしていたことがあったとも言われている。
    その後は、父親のかつての職業にならい、ラーメン店を経営。

  • 『週刊文春』(2023年9月21日号、文藝春秋)に取材協力し、東山紀之から受けていたイジメ被害を告発。[1]
      「彼(東山)は入所当時からジャニー氏メリー氏両人にかなり好かれていました。 それを盾に事務所内でなら何をしてもいいと思っていた。1人後輩で彼に歯向かった子がいたんです。 (東山は)背も周りより一回り大きかったから、彼を突き飛ばした。 次の日からその子、レッスンに来なくなったんです。 子供ながらに、彼の言うことを聞かなかったら事務所にいられなくなるって、その時みんな気付いたんだと思います。 胸ぐらを掴まれるなんてことはしょっちゅうだった。“お前が少年隊にいられるのは俺のおかげなんだからな!”ということも口癖のように言っていました。 僕だけではありません。植草君、錦織君にも言っていました。 彼らが仲良く振舞っているのは、東山君の機嫌を損なわないようにするためだけです。 僕ら3人は仲良かったですけど、東山君とはプライベートで会ったことはありません。 彼の機嫌を窺っていたのは、僕ら3人だけという訳でもありませんよ。 本当に売れている先輩以外、全員と言っても過言ではありません。 そういった意味では彼は当時から“社長”でしたよ」


人物

  • 得意なスポーツ - 野球、サッカー、バスケットボール

  • 好きな音楽 - テクノ

  • 好きなアーティスト - イエロー・マジック・オーケストラ

  • 憧れの俳優 - 松田優作

  • 好きな野球選手 - 読売ジャイアンツの篠塚和典

  • 『貫八先生』でも共演していた元ジャニーズJr.の友人・阿部順一から、1989年に「SHADOW (新・光GENJI)」のメンバーに入らないかと誘われている。 しかし、たまたま松原の都合が合わなかったために不参加となった。

  • 貫八先生の同窓会が行われた際、出演者の阿部順一を通じて元ジャニーズJr.の平本淳也(平本は貫八の出演者ではない)も参加。 そして平本が松原に、「ジャニーさんから迫られた選択で女を選んだことについて、今でも後悔はない?」と尋ねた所、「辞めて良かったよ。自由になれた気がした」と口では答えていたものの、ものすごく悔しそうに話していたことを、平本が2019年10月22日のトークイベントにて明かしている。


主な出演作品

バラエティ番組

テレビドラマ

  • マッチの燃えろ!青春 PART3
      (1981年11月29日 - 、テレビ東京『ヤンヤン歌うスタジオ』内の5分枠ドラマ)
  • 3年B組貫八先生 (1982年4月9日 - 1983年3月25日、TBS) 優等生でクラス一のモテ男・阿部誠役

映画

CM

  • ハウス食品
    • 「ロッカッキー」 第2弾バージョン (1980年10月 - )
        近藤真彦のバックで、薬丸裕英、東山紀之、浜中隆の3名と共にジャニーズJr.として出演。 このJr.の選抜オーディションは銀座の電通で行われ、その審査とダンスの振付を担当したのは西条満だった。
    • 「ロッカッキー」 第3弾バージョン (1981年)
        チーズ味新発売篇。 同じく近藤真彦のバックで、錦織、植草、東山と共にジャニーズJr.4名で出演。
        なお、第4弾(近藤のソロバージョン)を挟んで、同じ1981年に「ロッカッキー」の第5弾バージョンとなるサイクリング篇も作られた。(少年隊のメンバーが参加しているかは不明。錦織らしき人物の姿は映っている)
    • 「ククレカレー」 (1981年10月 - )
        錦織、植草、松原のジャニーズJr.3名で近藤真彦と共演。
  • 小西六写真工業 「サクラカラー カラーフィルム」 (マンガスキッパー篇。1981年)
      田原俊彦のバックで、植草克秀、東山紀之、鈴木則行、浜中隆らと共にジャニーズJr.6名で出演。


外部リンク








作成日:2007年8月18日

We welcome links from other websites.
Copyright of my site's all original sentences © Archive of STARTO. No rights reserved.

inserted by FC2 system