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メッツ



メッツは、1975年にジャニーズJr.出身のメンバーたちによって結成された男性アイドルグループ 兼 バンド。 バーニングプロダクションからデビュー。 その後、カワダブラザースカンパニーから再デビューした。

前身グループは、「ジューク・ボックス・ジュニア」 → 「ジャニーズ・ジュニア (第1期生)」 → 「ジャニーズ・ジュニア・エース」の順で変化。


 


メンバー

第1期 (1975年2月 〜 1976年12月29日)

  • 山縣孝良 (愛称:タカ坊。 ハモンドオルガン担当)

       

  • 小坂まさる (本名:小坂勝秀、愛称:マチャル & ヒデ坊。 リードボーカル&パーカッション担当)

       

  • 近藤純市 (愛称:ジャンボ。愛称の命名者は江木俊夫。 ドラム担当)

       

  • 鈴木寛 (愛称:ヒロ坊。 ベース担当)

       

  • 吉田義久 (愛称:ヨシ坊、ヨシちゃん、よしだクーン。 リードギター担当)

       

  • 柏木孝夫 (愛称:タカちゃん。 リズムギター担当)

       


第2期 (1978年 〜 1979年)



  • 小坂まさる (ボーカル&モンキータンバリン担当)
  • 柏木孝夫 (ベースギター&コーラス担当)
  • 鈴木寛 (リズムギター&コーラス担当)
  • 砂野誠一 
      いさの せいいち。 本名:砂野誠一郎。 1958年11月10日生まれ。 文京区出身。 B型。 愛称:せいいち。 都立文京高校卒業。 東洋大学経営学部中退。
      元々はアイドルバンド「ジェット」のメンバーで、CBSソニーより『移り気な青春』でデビューした。 二期目からメッツに参加したため、ジャニーズ事務所の出身者ではない。 ボーカル&ドラム担当。[1]
  • 青山浩一 (後の江蔵浩一 (えぐら こういち)
      1958年9月13日生まれ。 台東区出身。 AB型。 愛称:こういち。 堀越高校出身。
      上記の砂野と同じく、元「ジェット」のメンバー。 二期目からメッツに参加したため、ジャニーズ事務所の出身者ではない。 リードギター&コーラス担当。 [1]


概要

  • 1974年夏、「ジャニーズ・ジュニア 第1期生」が、2つのグループに分割された。 一つはフォーリーブスのコンサートのバックダンサーチームとして作られた3人組(板野俊雄、林正明、山縣孝良)で、「ジュニア・スペシャル」という新たなグループ名が与えられた。 残りの6名(小坂まさる、近藤純市、畠山昌久、鈴木寛、吉田義久、柏木孝夫)は、特に新しいグループ名は与えられず、元の「ジャニーズ・ジュニア」名義のままで郷ひろみのコンサートのバックを務めた。
    この人事に近藤は、「“ジュニア・スペシャル”の方が特別に聞こえる。僕らはハンパもんにされたみたい」と漏らし、小坂はフォーリーブスの北公次を尊敬していたために「フォーリーブスの方のバックで踊りたかった」などの不満を抱くようになっていた。
    そして、夏のコンサートを終えた1974年9月、ついに小坂は近藤と共にジャニーズ事務所からの退所を宣言し、それまで住んでいたジャニーズの合宿所からも飛び出した。 そのため、スペシャルのメンバーだった山縣が元のジャニーズ・ジュニア側に異動となり、同年10月に山縣、畠山、鈴木、吉田、柏木の5名に対して「ジャニーズ・ジュニア・エース」というグループ名が与えられるも、翌11月には山縣、鈴木、吉田、柏木の4名も脱退&退所してしまい、エースはたったの一ヶ月で崩壊した。 エースのメンバーの中でただ一人だけ辞めずにジャニーズに残った畠山はその理由として、「僕はジャニーズ・ジュニアという名前が好きだし、自分はずっとジャニーズ・ジュニアでいたいと思った」と月刊平凡編集部に対して語っている。
    そして同11月、ジュニアたちが「あにイ」と呼んで慕っていた郷ひろみのバーニングプロダクションへの移籍決定に伴い、退所した6名のジュニア (小坂、近藤、山縣、柏木、鈴木、吉田)、 郷のマネージャーだった川崎淳士、ジュニア 兼 郷の付き人だった「クリマン」こと卯野直敏、 そしてバンド「アニメーション」のドラム・長沢悟なども一斉に移籍することとなった。


      小坂と近藤がジャニーズ事務所を退所する直前に9名で最後に飾った雑誌の表紙 (『女学生の友』1974年10月号、小学館)

    『月刊平凡』では、同年11月号まで9名で掲載された。

    なお、同年12月5日に発売された雑誌『週刊少女フレンド』(1974年12月5日号、講談社)では、ジャニーズ・ジュニアの新星・井上純一、ジュニア・スペシャルの林、そしてエースからは退所直前の吉田という布陣で表紙を飾っている。


  • 郷ひろみにはジャニーズとの契約が1975年3月27日まで残っていたが、6名のジュニアには正式な契約というものが無かったため、一足先にバーニングへ移籍し、新グループ「メッツ」を結成。 1975年2月23日、大阪の枚方市民会館にてステージデビューした。
    郷ひろみがバーニングに来てからは、しばらく郷のバック(『花のように鳥のように』など)に付いて「GO & Mets」として活動した。

  • 1975年春、ファンクラブ「GO & Mets」を開設。 会報誌のタイトルは『GO & Mets』を経て、同年8月から『めっつかわら版』に。

  • 同年8月、メッツの単独全国ツアーを開催。 このツアーから、歌って踊るだけではなく、楽器を持ってバンドスタイルでも活動するようになった。

  • 同年11月25日、テイチクレコードのサブレーベルだったユニオンレコードより、シングル『レディ・レイは最高さ!』にてレコードデビュー。 キャッチフレーズは「ダイナマイトメッツ」。
    一方、「ジャニーズ・ジュニア・エース」からただ一人だけ移籍せずに事務所に残った畠山昌久、そして「ジュニア・スペシャル」の2名(板野、林)は、新たに「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」(通称:JJS)を結成し、メッツよりも9ヶ月早い1975年2月21日の時点でレコードデビューを果たしている。
    なお、JJSとメッツに分裂後も、畠山、小坂、山縣、近藤の4名はしばらく同じ堀越高校に通っていたが、1975年3月で小坂は転出、近藤は退学 (その後、林が転入)。 林、柏木、鈴木の3名も、東京学園高校でしばらく一緒だったが、3名とも転出。 つまり山縣だけが唯一、グループ分裂後もJJSのメンバーと一緒に学び続けた。

  • JJSの方は順調に活躍を見せていたのに対し、移籍組のメッツは地方のスーパーマーケットの新装開店時に呼ばれて歌うなどの営業仕事もしていたが、人気的にはメッツもJJSも五分だった。
    しかし、メッツはリーダーを作らない合議制のグループだったことが裏目に出てしまい、メンバー間で方向性の違いが生じてもまとめる役がおらず、1976年12月29日に港区白金台の結婚式場「八芳園」で行われた「メッツ解散さよならパーティー」をもって解散した。
    (雑誌『ZOOM in』の1985年9月号に小坂が掲載された際、小坂はメッツのリーダーだったと書かれているが、これは誤り)

  • その後は小坂まさるがソロで芸能活動を行っていたが、しばらくしてから元メンバーの柏木と鈴木、更にアイドルバンド「ジェット」出身の砂野と青山を迎え、楽器を持った5人編成のロックバンドとして「メッツ」を再結成した。
    (ファンの間では“新メッツ”や“ニュー・メッツ”などと呼ばれている。 なお、第一期メッツにも、楽器を持ってバンドスタイルだった時期があった)
    所属事務所も「カワダブラザースカンパニー」、レコード会社も「RCAレコード (後のBMG JAPAN)」に変わり、1978年10月に再デビューを果たしたが、やはり人気は終息する一方で、翌1979年には再び解散してしまった。

    なお、アイドルバンド「ジェット」は、砂野誠一(ドラム)、青山浩一(ギター)と、山田直毅(ボーカル&ギター。1959年2月14日生。堀越高校出身。後に「MMP (ミュージックメイツプレイヤーズ)」に参加。母は浪曲師の天津羽衣、妻は石川ひとみ)と、柴崎秀一(ベース。1958年10月21日生。明大中野高校出身。同じく後に「MMP」に参加。2005年に逝去)の計4人組で、1976年11月1日にCBSソニーから『移り気な青春 c/w 突然の夜』でデビュー。TBS「ぎんざNOW!」にもレギュラー出演していた。
        


エピソード

  • グループ名の「メッツ」は、メジャーリーグの「ニューヨーク・メッツ」からもじり、郷ひろみが命名した。 ちなみに郷ひろみのバックバンドには「4 JETS」と名付けた。 (後にメンバーが増加し、「4 JETS+2 (フォージェッツ プラス ツー)」→「スーパーJETS」へと進化)

  • ファンによる親衛隊も多く誕生した。 代表的なグループは、黄色いハッピの「ガッツメッツ」(最も大きなグループで、東京と大阪に存在した。メッツがまだジュニアだった頃の名前はただの「ガッツ」)、 黒いハッピの「ブラックメッツ」、水色ハッピの「VIVAメッツ」、ピンクのハッピの「たかちゃんを狙え!」(柏木孝夫個人の親衛隊)、そしてオレンジのタンクトップの「ラブリーメッツ」(東京と大阪に存在した。大阪は8人グループ。ジュニア時代の名前は「ラブリーズ」)、「SHINE METS」など。

  • メンバーの中では小坂まさるが常に中心的な目立つ存在だった。 雑誌『近代映画』(1974年7月号)で、林寛子、フィンガー5の玉元晃と3人で表紙を飾った他、『週刊セブンティーン』でも、森昌子と学生服姿でのツーショット対談をしている。 また、当時の雑誌のインタビューで「俺は芸能界で一番喧嘩が強い!」と豪語していたこともある。


解散後

  • 小坂まさるに関しては本人の項目を参照。

  • 近藤純市は脱退後、大学に進学。劇団に入ったりもしていたが、後に故郷の広島市に帰郷。 そして有名な飲食店グループのプロデュースをしたり、1982年には広島市中区新天地にディスコ『広島DISCO サンタモニカ』(通称:サンタ)をオープンする。
    当時の広島には、
    • CHICHIPAPA (チチパパ。1977年オープン
    • BB
    • インディペンデントハウス広島(通称:インデ) → 後に「塔克拉瑪干 (タクラマカン。1984年閉店)」 → 更に後に「Cote-d-Azur」(コートダジュール。通称:コート)
    • サザンクロス
    • リップスティック (通称:リップ)
    • THE MAXIMS (通称:マキシム。1981年3月18日オープン
    • ブルームーン
    • ファンキーファンク
    • R&B CLUB JAZZ FIVE (通称:ファイブ。1967年6月オープン
    • G
    • シャトレーヌ (通称:シャト
    • キサクラブ (通称:キサ。 後に「シェルター・D・キサ」に改名)
    • ライトハウス
    • ナファービス (通称:アービス
    • ナファービスU
    など、多数のディスコがあったが、その中でもサンタモニカはフリースタイルディスコの草分けとして大きな人気を得た。
    1988年にサンタモニカは閉店し、同地はマハラジャグループのディスコ「キング&クイーン」(通称:キンクイ)となった。
    1990年代にはスペインのバルセロナでスペイン料理の修行をした後、妻と共に広島市中区鉄砲町でスペイン料理店「ラ・カンペシーナ」をオープン。 2000年代前半に中区幟町に移転し、2000年代中頃に閉店した。 店の看板には「ジャンボの店」と書かれてあった)
    その後は妻子と共にアメリカのロサンゼルスに移住。 ラスベガスで日本人が経営する旅行会社「TRANS M.A.P.P. INC (トランス・マップ・インク)」に入社し、旅行代理店「ナビツアーUSA ロサンゼルス支店」に配属 [1][2]。 「ジャンボ近藤」名義でツアーガイドやコーディネーターを務める一方で、HIP HOPのDJとしても活動し、サンプリングによるトラック制作なども行う。
    2020年からは、カメラマンの友人のフォトツアー会社「LIGGIC PHOTOGRAPHY,LLC」に移り、同じく「ジャンボ近藤」名義でツアーガイドを務める。 [3][4][5][6][7][8]
    2021年12月6日、大動脈解離を発症。 翌7日から8日にかけ、10時間に及ぶ心臓の緊急手術を行い、一命を取り留める。

  • 山縣孝良は某有名ホテルチェーンに就職。

  • 柏木孝夫は、渋谷区千駄ヶ谷にあるアパレル関係の会社で企画の仕事をするかたわら、同世代の男性アイドルグループ「レモンパイ」のメンバーや、第二期メッツのドラムだった砂野誠一らと共に、バンド「JU T'AIME (ジュテーム)」を2007年5月に結成し、ボーカル&ベース、およびジュテームのロゴデザインを担当。 なお、2008年3月に六本木で行われたジュテームのライブには、山縣孝良と板野俊雄の二人がサプライズゲストとして登場している。 2010年夏に新バンド「J.S.&T.」、2011年11月に「SAYTAKA」を結成。
    [1][2][3]

  • 鈴木寛は、グループ解散後に金子美香、MIE、小比類巻かほる、河合その子、浦田千尋といった女性アーティストたちのレコーディングアレンジやコンサートのサポートを行っていた。 その後は通名を使用しながら、一般企業の社長に。 趣味はゴルフ。

  • 吉田義久は、建設会社にアルバイトとして入社後、長年の勤務を経て同社の社長へと就任したが、大病を患って退職した。

  • 青山浩一は、グループ解散後に本名の「江蔵浩一 (えぐら こういち)」に改名。 そして、1980年に元祖和製ガールズパワーポップ&ニューウェーブバンド「Pinups (ピンナップス)」で、ビクターインビテーションからデビューした。

    • 1stシングル 『あなたにオーバーヒート c/w ドクター,ドクター,』
        (1980年、2曲とも江蔵が作詞・作曲。 元「ハルヲフォン」の高木英一プロデュース)
    • 2ndシングル 『抱きしめてBABY! c/w ドキドキ』
        (1982年、近田春夫プロデュース。 2曲とも、1983年6月公開のにっかつロマンポルノ『セーラー服・百合族』で挿入歌として使われた)
    • 1stアルバム 『Pinups』
        (1981年。 江蔵が全ての作詞作曲を担当。プロデュースは高木英一。 1990年にCD化)
    • 2ndアルバム 『抱きしめて ! !』 (1982年6月、近田春夫プロデュース)

    1982年には、バンド「1193ダイナマイト・ブラザ−ス」にも参加 (レコードリリースは無し)。
    その後、渡英を経て音楽プロデューサーとなり、手塚眞の初監督映画作品『星くず兄弟の伝説』(1985年)の音楽制作を近田春夫藤原ヒロシ高木完らと共に担当。 また、KENZI(八田ケンヂ)、「アンジー」、「Rosy Roxy Roller (ロージー・ロキシー・ローラー)」らの作品も手がけた。
    一方で、1980年代にニューウェーブバンド「Fictions Of Romance (旧名:Sensational Fictions)」、 1990年頃にグラムロックバンド「Velvets From The Luna (通称:ヴェッチン)」、 1997年には平間希和子とのニューウェーブバンド「Poodoll & Goodoll (プードル・グッドル)」として活動した。
    その後は音楽学校「学校法人 杉山学園」でのギター&プロデュースの講師を経て、「学校法人岩崎学園 横浜デジタルアーツ専門学校」ミュージック科の常勤教員となった。
    2020年5月27日の朝に癌で逝去。 61歳没。(追悼サイト

  • 砂野誠一は、1982年に5人組のジャズロカビリーバンド「Be-Bops (ビーバップス)」を結成し、コロムビアレコードよりデビュー。ドラムを担当した。 メンバーは、砂野(ドラム)、稲岡弘之(ボーカル)、吉田光(ギター)、津田篤孝(ベース)、安岡清孝(サックス)。

    • シングル
      • Michiko From Tokyo c/w Tokyo Bop Baby (1982年)
      • 午前0時のニュー・ビート・ダンス c/w ビン・バン (1983年)
    • アルバム
      • Be-Bops (1983年2月21日)
      • DANCE TO THE BOP (1983年)
      • BOP JAPON (1984年、オールカバーアルバム)

    バンド解散後はアパレル営業に転職。 また、2007年3月12日に、元「ハイ・ソサエティー」の杉征夫と共に、ライブハウス「音楽食堂 夢弦 (MUGEN)」を三軒茶屋にオープン。 更に同年5月、同世代の男性アイドルグループだった「レモンパイ」のメンバーや、メッツの柏木孝夫らと共に、バンド「JU T'AIME (ジュテーム)」を結成した。 やがてアパレル営業は辞め、夢弦の経営に専念。
    2010年5月26日より個人ブログを開始。 同年夏にはジュテームの後身に当たる新バンド「J.S.&T.」を結成。
    続いて、砂野(ドラム、ボーカル)、柏木孝夫(ボーカル、ベース)、稲岡弘之(元「Be-Bops」。ボーカル、ギター)、黒岩典英(ピアノ)とのバンド「SAYTAKA & HIRO with KUROちゃん」も結成。 世田谷区野沢のミュージック喫茶「Little Brown Jug」を中心にライブ活動を行う。
    2014年10月、更に新バンド「THE MAGIC」を結成。メンバーは砂野(ボーカル、ドラム、カホン)、花岡光二(ボーカル)、矢吹薫(元「銀蝿一家」。ボーカル、ギター)、Take(ベース)、黒岩典英(キーボード)。
    なお、長男の砂野潤は子役としてテレビドラマ『ぼくらの勇気 未満都市』や『ウルトラマンガイア』に出演後、音楽活動を開始。
    次男の砂野悠(1988年9月19日生まれ)は、「吉本総合芸能学院(NSC)・東京校 第16期生」を経て、2011年4月より「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」にピン芸人・イサノユウとして所属。

  • この他に、東京都中野区で店舗を経営しているメンバーもいる。 また、2008年1月には山縣、柏木、鈴木、砂野、板野、林の6名での同窓会が行われ、同年2月10日に六本木アビーロードで行われた柏木、砂野のバンド「JU T'AIME (ジュテーム)」のライブにも、山縣、鈴木、板野の3人がサプライズゲストとして応援に駆けつけている。

  • 2023年10月、ジャニー喜多川の性的児童虐待問題を受け、浅草の「マルベル堂」が自主規制により、性犯罪者「ジャニー喜多川」を想起させる名称のグループだとして、メッツのメンバーも写っている「ジャニーズ・ジュニア」の生写真のネット上での販売をすべて禁止にする。[1]


主な出演作品

バラエティ番組

  • 第1回 ヤング 歌の祭典 (1975年5月5日、NHK総合)
      メッツの歌の披露は無し。 郷ひろみ、豊川誕、JJS、ジャニーズ・ジュニアも出演。
  • ぎんざNOW! (TBS) ゲスト出演
  • ドカンと一発60分 ! ! (1975年、テレビ朝日) ゲスト出演
  • オールスター夢の球宴 (1975年10月28日、フジテレビ)
      神宮球場で開催。 フォーリーブス、郷ひろみ、JJS、豊川誕と共演。
  • 夜のヒットスタジオ (1976年2月9日、フジテレビ) 『レディ・レイは最高さ!』を披露
  • あなたをスターに! (テレビ朝日) レギュラー
  • ビッグ・ワイド60分 (テレビ朝日) レギュラー
  • みごろ!たべごろ!笑いごろ! (1976年、テレビ朝日) ゲスト出演
  • 小川宏ショー (1979年、フジテレビ) 『沈みかけた夕陽はまだ赤い』を披露

テレビドラマ

  • ボクは恋人 (1974年7月からの参加、フジテレビ)
      メッツ結成前のジャニーズ・ジュニア(9人ジュニア)時代の出演作。

映画

  • 急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS (1974年7月20日、東宝、監督:小谷承靖)
      公開前のタイトルは『僕たちの明日』だった。 メッツ結成前のジャニーズ・ジュニア(9人ジュニア)時代に「孤児院の子供たち役」で出演。 舞台挨拶にも参加した。

舞台

  • 俺たち仲間より友情
      (1975年8月1日 - 30日、コンサートツアー「’75 サマー・エキサイティング・メッツ」内でのミュージカル。構成・演出:周防郁雄、振付:西条満)

ステージ

  • デビューステージ (1975年2月23日、枚方市民会館)
  • ’75 サマー・エキサイティング・メッツ (1975年8月1日 - 30日、全国11ヶ所のツアー)
  • ’75クリスマスをメッツと共に!
      (1975年12月25日:名古屋勤労会館、26日:大阪・毎日ホール、28日:代々木・山野ホール)
  • ’76 ダイナマイトメッツ
      (1976年1月5日:名古屋勤労会館、6日:大阪・毎日ホール、7日:代々木・山野ホール)
  • ザ・ルベッツ&メッツ ジョイントコンサート (1976年1月19日、大阪・毎日ホール)
  • サマー・エキサイティング・メッツ PartU
      (1976年8月13日:岡山市立市民文化ホール、29日:霞が関・久保講堂)
  • 大阪・万国博ホール
  • ミニコンサート&サイン会 (1976年10月10日)
  • メッツ解散さよならパーティー (1976年12月29日、港区白金台の結婚式場「八芳園」)
  • 阿倍野プール (5人時代)
  • 京都産業会館 (5人時代)
  • ほか・・・


ディスコグラフィ

シングル

第1期メンバー

  • レディ・レイは最高さ! c/w ひとりぼっちの夜 (1975年11月25日)
      A面の原曲はPierre Groscolasの「Lady Lay」。 A面曲を歌っているのは小坂、近藤、吉田の3名だけ。
  • ジュディ・ランラン c/w ママルー (1976年2月25日)
      A面曲のリードボーカルは小坂まさるで、原曲はThe Rubettesの「Judy Run Run」。 B面の原曲はPierre Groscolasの「Mamalou」。
  • ダイナマイト・パーティー c/w 愛する人へのラヴ・ソング (1976年4月25日)
      第1期メッツのシングルA面の中で、唯一のオリジナル曲。 この曲を歌う際は、小坂が毎回最後にバック転を披露していた。
  • メッツのシーサイド・バウンド c/w あなた好みの男 (1976年7月25日)
      A面の原曲はザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」。
  • オー・ママ・ミア c/w 気になるあの娘 (1976年11月25日)
      A面の原曲はフランスのシンガー・AMERIGOの「O MAMMA MIA」。 リードボーカルは近藤。

第2期メンバー

  • エナメル・シックスティーン c/w 真夜中の天使 (1978年10月)
  • TRY ! ! c/w マザー・シップ (1979年1月)

アルバム

第1期メンバー

  • メッツ・アルバム @ (1975年12月20日)

       

  • メッツ・アルバム U (1976年5月25日)

       

  • メッツ・アルバム V (1976年8月25日)

       

第2期メンバー

  • TRY ! ! / メッツ・ファースト (1979年)

       

レコード化されていない楽曲

  • Crocodile Rock (柏木ソロ。原曲:エルトン・ジョン。「’75 サマー・エキサイティング・メッツ」にて披露)
  • Mona Lisa (鈴木ソロ。原曲:ナット・キング・コール。「’75 サマー・エキサイティング・メッツ」にて披露)
  • Sweet And Innocent (山縣ソロ。原曲:ダニー・オズモンド。「’75 サマー・エキサイティング・メッツ」にて披露)
  • メッツ音頭 (1976年10月10日のミニコンサート&サイン会にて披露)
  • 君といつまでも (原曲:加山雄三。1976年10月10日のミニコンサート&サイン会にて披露)
  • 沈みかけた夕陽はまだ赤い (第2期メッツの曲。作詞:加藤日出男、作曲:武市昌久)
  • 他多数・・・


書籍

ムック

  • 近代映画8月号臨時増刊 郷ひろみ&メッツ特集号 (1975年8月、近代映画社)





ジャニーズ・ジュニア・エース (旧名:アニーズ・ジュニア)

別表記 「ジャニーズ・ジュニアA」 (読み方は同じ)。 ジュニア内ユニット。
1974年9月にジャニーズ・ジュニアから小坂まさると近藤純市の2名が脱退&退所したため、「ジュニア・スペシャル」のメンバーだった山縣が元のジャニーズ・ジュニアに戻され、山縣、畠山、柏木の3名で「アニーズ・ジュニア」を結成。

その後すぐにメンバーが2人増やされ、同年10月に「ジャニーズ・ジュニア・エース」と命名された。
しかし畠山以外のメンバーが全員、翌11月にやはり退所してしまったため、早くも崩壊。 実質的な活動は何も無いグループだったが、一応、上記「メッツ」の前身に当たる。


メンバー

  • 山縣孝良 (元「ジュニア・スペシャル」のメンバー)
  • 畠山昌久 (後に「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」のメンバーに)
  • 柏木孝夫
  • 鈴木寛 (追加メンバー)
  • 吉田義久 (追加メンバー)



外部リンク








出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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