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嶋田じゅん

    


嶋田 じゅん(しまだ じゅん、本名:島田純、英名読み:ジューン、1948年9月26日生まれ)は、元ミスユニバース日本代表であり、ジャニーズ事務所の女性第二号タレントで、ハーフの人物 (父がアメリカ人、母が日本人)。 後に「嶋田ジュン」に改名。 また、芸能活動時は年齢を2歳若く詐称し、「1950年9月26日生まれ」としていた。
身長:168cm、体重:53kg、B:88cm、W:60cm、H:88cm。 特技:ダンス、日本舞踊。
なお、ジャニーズ事務所の女性第一号タレントは飯野矢住代




所属事務所

  1. ジャニーズ事務所
  2. 大橋巨泉事務所


来歴

  • 母ひとり子ひとりの母子家庭に育ちながら、バレエ団に所属。

  • 1968年、『週刊文春』(同年12月23日号、文藝春秋)にて表紙モデルを務める。
       

  • 1969年8月、「1970年度ミス日本コンテスト・関東地区大会」に出場。 関東地区代表の中の1人に選ばれ、翌1970年1月、本選の「1970年度ミス日本グランプリ決定コンテスト」に出場。 結果は6位だった。

  • 1970年5月2日、大阪の万国博会場で開催された「ザ・ビューティー・ページェント・イン・ジャパン」に東京代表として出場し、優勝。 ミス・ユニバースの日本代表となる。

  • 同年6月19日、大阪万博で行われた「万国博の女王選出大会」にも出場。 世界51ヶ国のミスたちと美を競ったが、この大会では無冠だった。

  • 同年6月20日、大阪万博で行われたパレードイベント「美の祭典 ミス・ユニバース・ショー」に出演。

  • 同年7月、アメリカのマイアミビーチで開催された「第19回 ミス・ユニバース世界大会」では、セミファイナルからファイナルに進出。 第4位とベスト水着賞を獲得した。
    島田はショートヘアで大会に出場したが、これは当時のミスコンテスト出場者としては世界的にも珍しいことであった。 当時は21歳で、身長:168cm、体重:53kg、スリーサイズは、B:88cm、W:60cm、H:88cmだった。

  • その後、メリー喜多川にスカウトされてジャニーズ事務所に入所し、「嶋田じゅん」の芸名で活動。 歌とダンスのレッスンを受け、1971年にオープンした赤坂のレストランシアター「赤坂コルドンブルー」にて、レヴューショーの専属ダンサー第1期生となり、以後、約10年に渡って同店で踊った。 (『お笑いスター誕生 ! !』でブレイクする前の漫才コンビ「おぼん・こぼん」も、嶋田と同時期に同店の専属として、約10年に渡って漫才を披露していた)
    このレヴューショーの演出を、日本テレビのプロデューサー・井原高忠が務めていたことが縁で、嶋田は1971年10月12日スタートの日本テレビのバラエティ番組『ゲバゲバ一座のちょんまげ90分!』にも抜擢されてレギュラー出演するようになった。 また、レヴューショーの振り付けを担当していた小井戸秀宅には、1971年10月に嶋田が出演したミュージカル『生きていくのは僕たちだ!』でも振り付けをして貰った。
    なお、1971年10月にはCBSソニーから歌手としてレコードデビューする予定だったが、歌があまりにも苦手だったため、歌手デビューは中止となった。 唯一、翌1972年2月21日にリリースされたフォーリーブス主演のミュージカル『生きていくのは僕たちだ!』の実況録音盤アルバムには、出演者であった嶋田の声も入っているものの、歌詞カードのクレジットでは「田じゅん」と誤植されてしまっている。

  • 1972年の暮れに、3歳年下のフォーリーブス青山孝との熱愛がマスコミに発覚。 その後、かつて『ゲバゲバ一座のちょんまげ90分!』で大橋巨泉と共演していたことが縁で「大橋巨泉事務所」に移籍し、日本テレビ『あなたのワイドショー』に出演。

  • 青山孝との7年から8年の交際を経て、28歳だった1977年8月26日にロサンゼルスの「ウェイフェア・チャペル (ガラスの教会)」で挙式した。 ハネムーンはラスベガスとハワイ。 披露宴は同年9月11日に虎ノ門のホテルオークラ(後のホテルオークラ東京)で開かれ、その模様は当日フジテレビでも放送された (披露宴の司会者は徳光和夫)。 結婚から1年後の1978年に女児をもうけ、1982年8月4日には男児ももうけた。 この男児・城下一正は後に、「城下カズ」名義で歌手となった。

  • 1988年3月、東京都町田市にて、麻雀荘「青山」をオープン。当初は嶋田が個人的に経営していたが、後に夫婦で経営。 広さは12坪、雀卓は4卓で、1時間450円というシステムだった。

  • 1996年、青山孝と離婚。


出演作品

バラエティ番組

  • ゲバゲバ一座のちょんまげ90分! (1971年10月12日 - 1972年3月28日、日本テレビ)
  • ゲバゲバ一座のちょんまげ60分! (1972年4月2日 - 9月24日、日本テレビ)
      『ゲバゲバ一座のちょんまげ90分!』を60分に短く編集した再放送番組。
  • あなたのワイドショー (日本テレビ)
  • ラブラブショー (1977年9月11日 日曜22:00〜22:30、フジテレビ)
      「独占!フォーリーブス結婚式完全中継」。 青山孝との披露宴番組。 番組司会は芳村真理。 披露宴の司会は徳光和夫。

ミュージカル

  • 少年たちシリーズ第6作 〜 フォーリーブス・ライブ・ミュージカル
      星野演出事務所作品 「生きていくのは僕たちだ!」
      (昭和46年度文化庁芸術祭参加作品ミュージカル。 原作:大森晶子『十七歳の絶唱』。
      1971年10月29日&31日:帝国劇場、12月25日&26日:名古屋・御園座、1972年1月4日&5日:大阪フェスティバルホール。その後、3月31日まで全国公演。 通常公演は3月31日までだが、ロッテの懸賞イベント「ロッテであいまショー」の演目としても本作が使用され、1972年5月頃までは引き続き全国で公演した。
      なお、当舞台のパンフレットは全部で3種類存在するが、その内、最初の1971年10月公演分の白黒の表紙のパンフでは、公演日程の「1971年」と「1972年」の数字が一部入れ替わって誤植されている) 運命役

ステージ

  • レストランシアター「赤坂コルドンブルー」のレヴューショー
      1971年から約10年間専属ダンサーを務めた。途中から「嶋田ジュン」名義に改名。 演出:日本テレビプロデューサー・井原高忠。 振付:小井戸秀宅。 共演:渚香織ら。

雑誌

  • 週刊文春 (1968年12月23日号、文藝春秋) 表紙モデル
  • 週刊平凡 (1970年5月21日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「ミス・ユニバースは混血娘だった!」
  • 月刊平凡 (1970年7月号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕) モノクロ1ページ
  • 週刊平凡 (1970年9月10日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕) モノクロ1ページ
  • 週刊文春 (1971年、文藝春秋) 「まわり道してゲバゲバ出演」
  • 週刊TVガイド (1971年10月1日号、東京ニュース通信社)
    • 時代劇にてズッコケますル 秋の衣がえ 「ゲバゲバ一座のちょんまげ90分!」
    • 家族づれで大にぎわい 「人気タレント チャリティー・サイン会」
  • 読切雑誌 (1971年10月号、双葉社) ※ 内容が間違いだらけの記事
  • 月刊平凡 (1972年4月号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
  • 女性セブン (1977年9月1日号、小学館)
      「青山孝 独占手記 ぼくと島田純の愛7年」
  • 週刊アサヒ芸能 (1989年4月13日号、徳間書店)
      「あの「いい女」20人 近況を総直撃!」に、島田純名義で近影付きインタビュー掲載。

写真集

  • The Revue 赤坂コルドンブルー 駒野カズアキ 写真集 (2005年8月、ジャパンコミュニケーションサイエンス)


ディスコグラフィ

  • 生きていくのは僕たちだ! (1972年2月21日)
      フォーリーブス主演ミュージカルの実況録音盤アルバム。 歌詞カードのクレジットで嶋田は「岬田じゅん」と誤植されている。







出典:フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より改訂
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