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飯野矢住代

   
  


飯野 矢住代 (いいの やすよ、本名:飯野裕代 〔読み同じ〕、旧芸名:飯野やすよ、別名義:オリベゆり、1950年3月9日 - 1971年12月28日) は、元・ミスユニバース日本代表であり、ジャニーズ事務所の女性第一号タレント。
東京都文京区駒込神明町(現・本駒込)生まれ。 田無市(現・西東京市)と渋谷区円山町育ち。 渋谷区立松濤中学校卒業。
身長:169cm、体重:51kg、B:84cm、W:60cm、H:90cm。
数多くの著名人と浮名を流し、波乱万丈の末、わずか21歳の若さで焼死。 「団塊の世代」の最後の学年として生まれ、激動の昭和に短く咲いたあだ花。




来歴

生い立ち

  • 飯野矢住代(本名:飯野裕代やすよ)は、1950年3月9日、東京都文京区駒込神明町(現・本駒込)で生まれた。 100坪の土地に77坪の豪邸。 天井にはシャンデリア、庭には築山があり、使用人が何人も居るような家だった。 しかし、母・飯野辰子(辰代と誤植された資料が複数あり)はいわゆる“囲われ者”だったため、矢住代は父の居ない私生児であった。 茨城県北茨城市磯原に鉱山を持つ鈴木清が、渋谷区円山町で「一二三ひふみ」という源氏名の芸者だった辰子を1946年に身請け。 以後、1961年まで約15年間に渡って辰子を囲っていた。 この2人の間に産まれた子供が矢住代だった。

  • 2歳の時に胸膜炎を患った矢住代は、医者に「3日ともたない」と言われながら、奇跡的に一命を取り留める。 しかし、「今後病気をさせたら命の保証はしない」と医者に言われ、辰子は壊れ物でも扱うかのように大切に矢住代を育てた。 朝は10時まで寝かせ、選任の看護師まで付けるという生活だった。

  • この裕福な暮らしが、ある日突然崩れ去る。 矢住代が10歳の時、石炭産業の斜陽化で鈴木の会社が倒産。 再起するためには、家屋敷を売却しなければならず、もう飯野たちを囲うことが出来なくなった。
    母娘2人は田無市(現・西東京市)の畑の中に引っ越し、辰子は再び三味線を持って芸者に戻った。 母の居ない家で幼年期を迎えた矢住代は、父が居ないコンプレックスと母に置き去りにされる寂しさとが重なり、長い反抗期を送るようになった。

  • やがて、田無市から母の職場がある渋谷区円山町に移る。 母一人子一人の生活は苦しく、小さな二間きりの風呂なしアパートで暮らした。 辰子は自宅で芸者置屋『光清みつきよ』を営む女主人だったが、実際は名ばかりで芸者は辰子1人しか居なかった。

  • 1964年、渋谷区立松濤中学校の3年生になった矢住代は、当時テレビドラマ『次郎物語』(1964年4月7日〜1966年3月29日、NHK総合)の主演で人気を博していた「劇団こまどり」所属の同い年の子役俳優・池田秀一(1949年12月2日生まれ)のファンとなり、追っかけを始める。 矢住代は池田に会うために、『次郎物語』を撮影していた千代田区内幸町のNHK・日比谷会館に通い詰めた。
    (なお、『週刊平凡』1972年1月20日号に書かれている「当時彼(池田)は中学2年、彼女(矢住代)が1年だった」という記述はいずれも誤り。実際は2人とも中学3年生。
    また、この『次郎物語』に出演していた子役俳優の宮城熙松みやぎ ひろまつが後にジャニーズ事務所に入所し、ジャニーズJr.になっている)
       

芸能界へ

  • 矢住代は家計を助けるため、1965年3月に松濤中学校を卒業すると、高校へは行かずにモデル業を始めた (この時から「飯野やすよ」、途中から「飯野矢住代」の芸名で活動)。 ザ・ワイルド・ワンズのコスチュームデザイナーのアシスタントとして、衣装のデザインに加わったり、親しかった内田裕也(当時、ザ・フラワーズのメンバー)の紹介で初代ジャニーズの付き人を始めるようにもなった。
    そんな中、当時ジャニーズのバックバンドのメンバーだった嶺のぼると非常に親しくなる。 片親だった矢住代は、嶺が家族と住む三鷹市井の頭のアパート「さかえ荘」に夕食を食べに頻繁に通い詰めた。 帰りは井の頭線の三鷹台駅から上りの電車に嶺も同乗し、一旦終点の渋谷駅まで2人で行くが車両からは下りず、やがてその車両が下りの最終電車として折り返し運転を始めると、矢住代は神泉駅で下り、嶺は三鷹台駅まで帰っていくというのがいつものパターンで、恋人関係ではなかったが、嶺との交友は2年ほど続いた。 一方で、矢住代は夜の赤坂や六本木で遊びまわるようにもなり、当時は周囲から「深夜族」と見られていた。

  • こうした生活の中で、業界人の人脈が一気に広がっていく。 そして、やはり内田裕也を通じて、飯倉片町のイタリアンレストラン「キャンティ」ではザ・スパイダースの面々とも知り合った。
    矢住代は中学3年の終わり頃から詩作を始めており、詩を書き溜めた大学ノートは当時で既に10冊を超えていた。 それを知ったスパイダースのメンバー、かまやつひろしが、その中の一篇に曲をつける。 これが、ザ・スパイダースの6枚目のシングル『サマー・ガール』のカップリングに収録されたサイケロック『なればいい』として1966年7月1日にリリースされた。 矢住代の作詞家名義は「オリベ ゆり」。 常に欲求不満、刹那的で、ヤケになって生きていた当時の矢住代の心境がそのまま綴られており、シュールな作品として評価が高い。

  • 16歳の後半に、車の中で強姦される。 相手の男は矢住代にずっと好意を寄せてきた友人で、日活の若手俳優 (イニシャルは I)。 これが矢住代にとっての初体験となった。 イニシャル・Iに該当する日活の若手俳優は、井田武 (後のいだたけ志)、糸賀靖雄、岩手征四郎など。

ミス・ユニバースへの挑戦

  • 1967年、長身のスタイルを活かして商店会主催の小さなミスコンテスト「ミス渋谷 (別名:ミス東京)」に出場し、優勝する。 同じ頃に、銀座のクラブでホステス業も経験。

  • 1967年の暮れより矢住代の母親が、過労によって抵抗力が弱まっていたのか、結核を発病する。

  • 1968年1月発売のザ・バーズのデビュー曲『ごめんなさいね』の作詞を、吉田央(後の吉田旺)との共作で手がける。

  • 1968年2月、ザ・タイガース加橋かつみ(愛称:トッポ)と交際を開始。 矢住代にとって初めての彼氏。
    しかし矢住代の登場によって加橋の生活態度は一変。 夜遊びに埋没するようになり、バンドの規律を大きく乱すきっかけとなった。 オノ・ヨーコはビートルズ、ナンシー・スパンゲンはセックス・ピストルズのメンバーから疎まれたように、矢住代もまた、サークルクラッシャー、ファム・ファタールとしてタイガースのメンバーから疎まれた。

  • 1968年5月5日、「ミス・ユニバース」の日本大会に出場し、見事優勝。 日本代表となる。
         
    会場は大阪市大淀区(後の北区)のABCホール。応募総数は2,836人。そして全国7地区の代表21人で競い、審査員は、伊藤邦輔(万国博催し物のプロデューサー)、小磯良平(画家)、那智わたる(女優)ら10人だった。 優勝の賞品として、自動車、カラーテレビ、婚礼家具一式などが贈られた。 更に矢住代の母・辰子が創価学会員だったため、後日、池田大作からも豪華なプレゼントが贈られた。
    しかし、優勝の挨拶の際に矢住代が、「私は二号さんの娘です・・・」と、芸者の私生児である自分の生い立ちをいきなり語り出したことが問題となる。 この告白は当時のジャーナリズムを大いに騒がせ、週刊誌などは競い合うかのようにこのネタに飛びついた。
    日本代表選考会の主催者、フランチャイズ・ホルダーだった「国際親善友好協会」は、この事実に落胆。 矢住代の最終学歴が中卒という点にも難色を示し出した。そしてマスコミに対し、「今年からミス・ユニバースの日本代表のレベルをアップしようと思ったが、やはりうまくいかなかった」(週刊新潮、1968年5月18日号)、 「我々としては、彼女がマイアミで入選でもしたら、また問題になるし、今度は国際的なことになってしまうので、それを一番恐れているんですよ。この上はすんなり落ちて、なるべくニュースにならんことですね」(同誌、1968年6月15日号)とまでコメントしている。
    矢住代の自宅には「二号」、「妾の子」などのイタズラ電話も相次ぎ、右翼を名乗る男からは「貴様は日本の恥だ。世界大会を辞退しないと、家がどうなっても知らんぞ」と脅された。 日本刀を持った男が、円山町の矢住代のアパートに怒鳴り込んできたことまであった。
    国際親善友好協会は矢住代に対して日本代表を辞退するように勧告したが、矢住代はそれをつっぱね、マナーや英会話の特訓を受けたり、関係各方面への挨拶回りに追われる日々を送った。 ところが、本来アメリカへの渡航費は協会が負担するはずだったが、一切出してもらえないことになった。 仕方なく矢住代は業界関係者の間を駆け回るも、思うように資金が集まらずにいた中、洋服デザイナーの知人を介して山口洋子 [注 1] と出会い、山口が銀座で経営する最高級クラブ「」のホステスとして、破格の200万円という契約金で働くことを条件に、渡航費用をまかなった。
    新たな晴れ着を買う余裕までは無かったので、母の友人から贈られた黄八丈を1枚持ち、協会からは介添人さえも付けてもらえない中、母と二人だけで1968年6月下旬にアメリカに渡り、7月13日にフロリダ州マイアミビーチで行われたミス・ユニバース世界大会に強行突破で出場。 その結果、矢住代はアメリカの審査員のミセス・アブトンやイスラエルの審査員からは盛んに褒められたが、入選には至らず、各国代表の互選(出場者同士の投票)による「ミス・アミティ (ミス親善)」に選ばれるに留まった。
    そして日本へ帰国した日、羽田空港のロビーには50名ほどの記者が集まっており、そのまま会見が行われ、矢住代は「親善協会の仕事が済み次第、銀座のクラブホステスになる」と宣言した。

ホステス、派手な異性関係、出産

  • 親善協会との契約期間を終えた矢住代は、山口洋子が当時銀座で経営していた最高級クラブ「[注 2] でホステスとして勤務開始。 当時の同僚には、大門だいもん節江(源氏名は「節恵」。梅宮辰夫の最初の妻。その後「大門だいもん節子」の芸名で歌手デビュー)や、女優の山口火奈子かなこが居た。 (なお、矢住代が店を去った後には、田辺まりこカルーセル麻紀田村順子〔後に俳優・和田浩治の後妻〕らも「姫」に入店している)
      

    更に、かつて「初代ジャニーズ」の付き人をしていた縁で、ジャニーズ事務所でタレント活動も開始した。 モデル業だけでなく、テレビドラマや映画にも出演し、並行して舞台の話も決まりつつあった。

    その一方で、恋多き女だった矢住代は、おぼっちゃま育ちで背の高い大学生(松濤中学時代の同級生)との交際を経て、駆け出しのバンドマンだった1歳年上(実際は4歳年上の可能性あり。理由は下に詳述)の混血男性、ジョニー・レイズ (後のジョニー吉長) と1969年1月末より交際を開始し、同年4月、矢住代はまだ19歳になったばかりだというのに、早くもジョニーとの子供を懐妊した。
    さすがに「ミス・ユニバース日本代表のホステス」という肩書きの効果は大きく、高級クラブ「姫」での人気は一番で、1日の報酬も1万5,000円(令和初期の価値で6万円)を稼ぎ出していたが、それでも飽き足らず、矢住代は無職の彼氏・ジョニーに貢ぐために、山口洋子に金を無心してバンス(前借り。アドバンスの略)を続けた。
    『平凡パンチ』(1969年4月7日号、平凡出版)では、「飯野矢住代と8人の男 18歳のセックス・ヒストリー」というタイトルで5ページに渡るインタビュー記事も組まれた。 この他にも当時の矢住代の周りには、矢住代が放つオーラに魅了されながらも手が届かずにいる無数の取り巻き男性が居り、彼らからは「女神」として崇められていた。

      ジョニー・レイズ



      本名:吉長信喜 (よしなが のぶき)。 別名義:吉長信樹。 1949年3月21日生まれ。 福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)出身。 血液型:A型。 父親がドイツ系アメリカ人、母親が日本人のハーフで、3ヶ月早産の未熟児として生まれた。 (なお、『女性自身』(1969年11月8日号)にて当時の年齢が「23歳」だと明記されているため、実際は「1946年生まれ」の所、後から3歳若く詐称して生涯活動した可能性が非常に高い)
      1960年代にGSバンド「ザ・チェックメイツ」のボーカル(当時は「ジョニー・レイズリー」名義)を経て、ジョー山中も在籍したバンド「カーニバルス」にドラムスとして加入。
      後にバンド「イエロー」を経て、Char(竹中尚人ひさと)、ルイズルイス加部(加部正義)と共にバンド「ピンククラウド (旧名:ジョニー・ルイス&チャー)」を結成し、ジョニー吉長に名を改めて活躍。
      1980年7月に歌手の金子マリと結婚。 ジョニーは私生児で無戸籍だったために金子側の籍に入り、本名が「金子信喜」になるが、1999年に離婚したため、再び吉長姓に戻った。 2人いる息子は、ミクスチャー・ロックバンド「RIZE」のドラマー・金子ノブアキ(旧芸名:金子統昭、本名:金子信昭)と、同じく「RIZE」のベーシスト・KenKen(本名:金子賢輔)。

        (左から、金子マリ、KenKen、金子ノブアキ、ジョニー吉長)
      2012年6月4日午前4時54分、重症肺炎により、目黒区内の病院で逝去。 63歳没 (朝日新聞の訃報欄にも63歳と書かれたが、実際は66歳没の可能性あり)。 1ヶ月後の同年7月4日に、下北沢の北沢タウンホールにて「ジョニー吉長 お別れの会」が執り行われた。

  • 矢住代は母親の反対を押し切り、原宿のワンルームのアパートでジョニーと同棲を始める。 矢住代は毎日、マーガレットやピンクのバラを買って部屋いっぱいに飾った。 バスルームには、ジョニーのために拡大鏡の付いたヒゲソリ用の鏡も設置した。
    しかし妊娠が発覚したことで、ジャニーズ事務所の副社長・メリー喜多川と衝突。 1969年後半に事務所を解雇される。(なお、矢住代はその後で飼い始めた愛犬に、「メリー」という名前を付けている)
    やがて、ジョニーへ貢ぐためのバンスもかさんで限界に達したため、「もうバンドはやめて働いて」との矢住代の願いを聞き入れたジョニーは、バンドを抜けて、理容師になるべく見習い修行を始めた。 矢住代も、徐々にお腹の大きさが目立ち始めたため、1969年9月半ばから「姫」での勤務は産休に入ったが、母親の友人のそのまた友人が経営する高田馬場の場末の小さな喫茶店でウェイトレスをするようになった。 そして住まいも、母・辰子の住む円山町の小さなアパートに戻り、3人で同居するようになった (『女性自身』1969年11月8日号参照)。
    当初は矢住代とジョニーの仲を反対していた母親だったが、3人で一緒に住むようになってからはジョニーを気に入り、ジョニーの服や下着も母親が洗濯してあげるようになった。 また、ジョニーはレストランの経営を新たな目標とし、「姫」の山口洋子の紹介で同年11月のはじめから赤坂のサパークラブのボーイとして働くようになった。 月給は5万円 (令和初期の価値で15万円ほど)。
    矢住代は、「ジョニーは私の夫です」と周りに伝えていたが、ジョニーは私生児で無戸籍だったために籍は入れられず、正式な結婚ではなかった。

  • 妊娠4ヶ月の状態で、矢住代が雑誌『女性セブン』(1969年11月19日号、小学館)にてジョニーと共にヌードを披露。

  • 出産予定日は1970年2月26日だったが、1969年12月22日の夕方に産気付き、同日19時15分、渋谷区広尾の日本赤十字社中央病院(後の日本赤十字社医療センター)で2,150グラムの男児を出産。 しかし、予定より2ヶ月も早い出産で未熟児だったため、保育器に入れられた後、呼吸困難に陥ってチアノーゼも起こし、生後24時間も経たずに男児は12月23日17時19分に死亡してしまった。 (なお、2019年7月9日にジャニー喜多川が死去したのも同病院)
    ジョニーは父親として認知はしたものの、矢住代とは入籍が出来なかったため、男児は矢住代の籍に入れることとなり、ジョニーと矢住代の本名(信喜と裕代)を掛け合わせ、「飯野信裕のぶやす」と名付けて戸籍に刻んだ。

  • 1970年1月22日、矢住代は再び日給1万5,000円を稼げる銀座の高級クラブ「姫」に戻った。 ジョニーは赤坂から青山のクラブに移って働いていたが、同年3月、矢住代に「もう一度音楽をやりたい」と切り出し、矢住代もそれを了承。 同年5月に同棲生活を解消し、ジョニーはバンド「カーニバルス」に復帰した。

  • 雑誌『週刊平凡』(1970年5月21日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)にてフルヌードを披露。

  • ジョニーと別れて独り身を謳歌していた矢住代だったが、破局の件はすぐに知れ渡り、ジョニーの後釜を狙う男たちが次々と矢住代の前に現れた。 青年実業家、芸能人 (俳優の藤竜也など)、芸術家、テレビマン・・・。 中には愛人契約をチラつかせる財界人もいた。 愛人契約やパトロンの申し出は断ったが、八百屋の次男坊、俳優・西郷輝彦など、様々な男性たちとの交際を始めた。 そして男たちと過ごす時間の方が増え、更にホステスという仕事自体も徐々に嫌になり、「姫」での仕事は休みがちになっていった。
    男が出来るたびにその男の部屋に住み着いては限界まで金を貢ぎ、別れるとまた円山町のアパートに戻るの繰り返しだった。 やがて、その様子を見かねた「姫」の常連客で音楽評論家の木崎義二が、妻と相談した上で、矢住代をしばらく自宅に下宿させることにした。
    なお、交際期間は1〜2ヶ月と短いものだったが、3歳年上の西郷輝彦のことは特に深く愛した。 西郷とは、1971年2月9日に「姫」で初対面。 お互いに一目惚れだった。 初めてのデートは西郷の運転するムスタングで行った江の島。 その後は、西郷の家に通ったり、山中湖で一晩中愛し合ったり、深夜の六本木で肩を組んで歩いたり、好きな歌をデュエットしたりなどのデートを楽しんでいた。 しかし、当時の矢住代は芸者をしている母の勧めで、午後の空いた時間に日本舞踊の稽古に通っていたのだが、西郷に夢中になるあまり、稽古に行く足が遠のいていった。 それを見かねた母が、矢住代と西郷の双方に対して不満を漏らし始める。 更に西郷の周辺の人間も、矢住代の過去をあることないこと吹き込んだりしたため、次第に西郷との仲もしっくりいかなくなり、破局を迎えた。(なお、西郷は翌1972年に早くも辺見マリと結婚している)

  • その後、矢住代は「姫」には戻らず銀座の別のクラブでホステス業を再開。 しかし毎回バンス(前借り)を作って借金を抱えながら、短期間で店を転々とするようになった。

  • 雑誌『平凡パンチ』(1971年8月10日号・臨時増刊 STAR NUDE特集号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)にて、再びフルヌードを披露。

不慮の死

  • 矢住代は様々な男性と交際する中、かつて中学3年生の時に追っかけをしていた同い年の俳優・池田秀一(後に声優。代表作はアニメ『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル役)と、1971年7月に芸能人の溜まり場だった渋谷の高級会員制絨毯バー「深海魚」にて約7年ぶりに再会 (なお、深海魚の目と鼻の先の木下ビルには当時、ジャニーズ事務所、および合宿所があった)。 当然のごとく2人はすぐに親密な関係となり、以降も「深海魚」などで飲んだり、池田の趣味であった乗馬も一緒に楽しんだ。 池田の誕生日には黒色のスーツをプレゼントし、週2回ほどの頻度で池田の住んでいたマンションの部屋にも通っていた。
      (笹塚駅南口の目の前で、線路沿い、玉川上水横の「京王笹塚コーポラス2号棟」。渋谷区笹塚1-47-2-719号室。
      1967年築。別名:京王重機ビル。このマンションには後に潮哲也・九条亜希子夫妻や比企理恵も住んでいた。老朽化により2011年9月に解体され、2015年3月から複合施設「メルクマール京王笹塚」に)


      画像元:http://darui-otoko.seesaa.net

       
      画像元:https://hayata-sanpo.blog.ss-blog.jp

    そして矢住代は池田の部屋で、年の瀬の1971年12月28日、わずか21歳の若さで不慮の死を遂げた。 それは、池田がジャニーズ事務所のタレント・内田喜郎との共演ドラマ『美人はいかが?』(TBS)のロケで聖蹟桜ケ丘に行っていた際の留守番中に起きた事故だった。

      (ドラマ出演時の池田秀一)

    矢住代はまず、同日の朝9時に池田の部屋を訪問。 そして池田のために急いで卵焼きとスープを作り、9時半にロケ仕事に向かう池田を見送った。 そして午前中、マンションの下の酒屋に行ってサイダーを買っている。
    その後、風呂に入りたくなった矢住代は、浴槽に水を入れて点火。 しかし、ポリエチレン製の浴槽の排水栓がわずか数ミリずれたままになっていた。 その隙間から水が漏れ抜け、やがて空焚き状態になってしまい、ガスの火がポリバスや新建材の壁、天井に引火し、約20平方メートルを焼いた。 合成樹脂を焦がすことで、有害ガスと一酸化炭素が室内に充満していく中、矢住代は6畳間の寝室のベッド脇で、ストライプのシャツ、矢がすりのミニスカート、その上からエプロンを着けた姿のまま、深い眠りに落ち込んでいた。 矢住代は前夜からずっと起きっぱなしで、行きつけだった渋谷の「深海魚」などで飲み歩いてきた後だった。 やがて煙に巻かれ、蒸し焼きのような状態で意識不明に。 事件の第一発見者は、同じ階の705号室へ出前の器を回収しに来た笹塚の「弥生そば」の店員の青年(当時26歳)だった。 同日14時50分頃に池田の部屋の換気窓から黒煙がもうもうと廊下に噴出しているのを発見。 青年曰く、「息をするのも苦しかった」という程の煙だった。 青年はすぐに管理人に通報。 そして渋谷消防署員が駆け付け、通報から20分後(消火作業開始からは5分後)の15時10分に火が消えた。 火元の風呂場では浴槽がドロドロに溶け、通風筒はぐにゃりと曲がり、タンスの中にまで黒いススが入り込んでいた。
    消防署員によって発見された意識不明の矢住代は、髪の毛、顔、鼻の穴までススで真っ黒の状態だった。 すぐさま渋谷区幡ヶ谷の黒須外科病院(後のクロス病院)へ運ばれたが、途中、15時15分に息絶えた。
    マンションの2号棟は、3階から9階までが住居スペースだったが、玄関通路がちょうど笹塚駅のホームに面していたため、電車を待つ乗客たちが火災の煙が出始めた段階ですぐに気付けていたら、あるいはすんでの所で一命を取り留めていたのかもしれない。 しかし当時の笹塚駅はまだ高架になる前で高さが足りず、ホームの屋根を越えたはるか先の7階の通路を見上げるような乗客は、なかなか居なかったものと思われる。
    なお、矢住代には約500万円(令和初期の価値で1500万円)もの借金が残ったままであった。
    (山口洋子の著書『ザ・ラスト・ワルツ 〜 「姫」という酒場』では、「置きごたつからの出火。 第一発見者は帰宅した恋人」などと書かれているが、どれも誤り)

  • 遺体の状態が悪かったのか、先に幡ヶ谷の「代々幡斎場」にて12月29日に荼毘に付され、その夜に遺体の無い状態で通夜、翌30日に葬儀・告別式が骨葬として執り行われた。 斎場には池田秀一の他、矢住代が親しくしていた音楽評論家で「姫」の常連客・木崎義二、そして母・辰子だけでなく、父・鈴木清も訪れた。 更に、矢住代が当時交際していたもう一人の男性・小泉氏(ギター講師、当時25歳)も現れたことで、三角関係にあったことも発覚した。
    池田はその後、女優・声優の戸田恵子と結婚したが短期間で離婚し、12歳年下の女優・声優、玉川砂記子と再婚。 一方の戸田恵子は、ジャニーズ事務所出身の井上純一と再婚するが、やはり離婚している。
    なお、池田は2007年1月に自叙伝『シャアへの鎮魂歌 〜 わが青春の赤い彗星』(ワニブックス)を上梓したが、この重大な事件については一切触れていない。

  • 母・辰子は、結核だけでなく、胃と心臓の病気、喘息なども重なっており、矢住代が亡くなるより2ヶ月前の1971年11月から、清瀬市の織本病院に入院していた (当時48歳)。 矢住代は、ふぐ刺し、茶巾寿司、大皿にのせたマグロの中トロ、純白のシクラメンなど、いつも豪華な見舞いの品々を持って、頻繁に母の病室を訪ねていた。 そして、「正月には(愛犬の)メリーを連れて、一緒に熱海に行こうね」と、病床に伏せている母に話しかけていたが、2人が会ったのは12月24日のクリスマスイブが最後となった。
    音楽評論家の木崎義二の妻から矢住代の死を知らされた辰子は、強壮剤を打って幡ヶ谷の病院に向かい、変わり果てた娘を前にして大声で泣き崩れた。
    その後、辰子は退院して円山町のアパートに戻ったが、やがて寝たきり状態となり、矢住代の死から半年後に後を追うように他界した。
    矢住代は、東京都豊島区の寺院に、早逝した愛児と共に眠っている。


人物

  • 矢住代が述べた自身の性格 - 寂しがり屋、自由奔放、男性に対しての気が多く惚れっぽい、非常にヤキモチ妬き

  • 矢住代と直接かかわった人たちによる数々の証言から、生前の矢住代はADHD(注意欠陥・多動性障害。発達障害の一種)だったと見られている。

  • 特徴 - 顔の表情が非常に豊か。 喋り方が舌足らず。 右の足首に生まれついての大きなアザがあった。

  • 主義 - 「反省はするけど、後悔はしない」

  • 好きな曲 - ザ・モンキーズ 『I Wanna Be Free (邦題:自由になりたい)』

  • 好きな花 - 菜の花、マーガレット、ピンクのバラ、シクラメン

  • 愛煙タバコ - フィリップモリス
      (これは交際していた西郷輝彦が吸っていた銘柄で、矢住代も真似するようになった。 西郷を深く愛していた矢住代は、別れた後もずっとこれを吸い続けた)

  • 元「ロッテオリオンズ」の選手→監督の有藤通世ありとう みちよと親友同士だった。

矢住代に対する人物評

  1. 「わたしゃ、あの子(矢住代)のしつけを失敗した」 (母・辰子)

  2. ザ・タイガースのメンバーだった俳優の岸部一徳が、
    「合宿生活の門限(午後10時)を破ったのは、(加橋)かつみやったな。 あいつが外泊するようになってから、合宿生活の規則がなんやめちゃくちゃになりよった。 あいつが帰らへん時、オレたちで新宿へ探しに行ったことがあったやないか。(原因は)飯野矢住代や」
    とコメントし、タイガースが崩壊するきっかけを作った人物が飯野であると述べている。 (書籍『ザ・タイガース 日本の青春』、青木弘 著、1972年8月、日芸出版)

  3. ザ・タイガースのメンバーだった森本太郎も、同書で矢住代について、
    「ようジャズ喫茶の楽屋へ遊びに来よったし、(加橋)かつみが好きやったやろ。オレらの目を盗んで? ようデートしよったな」とコメントしている。

  4. ザ・タイガースのメンバーだった当の加橋かつみは同書で、
    「彼女と話しているとりとめもない話が、リズムを生み、メロディーとなって流れて出てくることがよくあった。(中略)楽しかった。いろいろなことが。ぼくの中に新しい世界が出来た」と述べている。

  5. 「矢住代はせっかく美の神に祝福されて生まれてきながら、その根性は二流だ。 精神が二流の女には所詮二流の道しかないのが、酒場女の行く末と運命である。 おそらく矢住代は話題は集めても、金も客も人気も集められないマネキン人形の存在で終わるだろう」 (山口洋子)

  6. 「最初は私がクラブ「姫」のナンバーワンだったけど、ミス・ユニバース日本代表の彼女(矢住代)が入店するとあっという間に追い越された。 でも別段どうとも思わなかった。 何より顧客がかぶらなかったしね。 私の方は年配のお客さんが多かったけど、向こうは若い人がほとんど。 だから彼女は・・・・・・自然とそういうノリになっちゃったのかもね。
    ライバル? とんでもない。 だって彼女は入ったときからスターじゃない?  可愛くて背も高くてスタイル抜群。 かなう相手じゃなかった。 性格も明るいし悪い印象は本当にないのよ。
    ただ、彼女に限ったことじゃないんだけど・・・、他のホステスの子とお客さんのことで、トラブルがあったのは覚えてる。“取った取らない”みたいなささいなこと。 なんで覚えているかっていうと、“ナンバーワンなんだから、もっと余裕でいればいいのに”って思ったから。 少し珍しいケースだった。 嫉妬深い性格? まあ、そうよね。 そんなこんなで(矢住代は)トラブルも多くてママも大変そうだった。 「姫」は若い子が多かったけど、特に彼女は若かったし、敵も多かったかな。 私が覚えてるのはそれくらい」 (クラブ「姫」の同僚・大門だいもん節江)

  7. 「彼女はスタイルもいいし、美人だったけど、「姫」では問題児でした。よく店を休んでいましたからね。 銀座でやっていくにはパトロンを付けて美しく着飾ることが必要なのに、彼女はそれを嫌がった。 自分の好きという気持ちにいつも正直でいたくて、その結果、いろんな男を取り替えるようになってしまった。 しかも、何でこんなヤツと? と眉をひそめるような男ばかりなんです。 そういう男とつきあっていると、肌も荒れるし、仕事にも熱が入らなくなるし、お金もなくなるから着飾ることもできない。 そうなったら銀座では生きていけません。そこらあたりから彼女の転落が始まったかと思います」 (評論家・櫻井秀勲)

  8. 「“妾の子”という暗い宿命を背負った意地っ張りの少女にとっては、周囲への反発があったのだろう。 それだけに、成長期の屈折には、いたわりが必要だったのかもしれない」 (『主婦と生活』1970年11月号での記者談)

  9. 「ひとことで言えば、生まれたままの赤ん坊の魂を持ち続けたコだった。 思ったことは、体当たりで決着をつけないと気がすまない。 男に惚れれば、その家に出かけて行って花を飾り、料理を作ってやる。 思いっきり、その場でつくしちゃって、誤解を恐れず、かけひきもしない。 “反省はするけど、後悔はしない”というのが、あのコの口癖だった」 (矢住代にスタンダードジャズを手ほどきしていた男性ミュージシャンのコメント。『週刊明星』1972年1月23日号)

  10. 「子供だから、世間の約束ごとに従ったり、物事をほどほどにするということができない。 去年の夏すぎに訪ねてきたときも、1年分ぐらいあるんじゃないかと思われるおもちゃを意気揚々と持ってきて、ウチの5つになる子に、『ハイ、おみやげよ』といってドサッと渡すから、『いいかげんにしろよ』とたしなめたことがある。
    確かにルーズな面があり、人に迷惑をかけたろうが、損得の計算がまるでないし、どうしても憎めなかった」 (音楽評論家で「姫」の常連客・木崎義二。『週刊明星』1972年1月23日号)

  11. 「彼女には破滅に向かって自分を追い込んでいってしまう所があったと思います」 (『週刊新潮』2008年3月20日号の特別読物「大女優も殺人犯もいる『ミスコン100年』美女たちの栄光と転落」にて芸能記者談)

  12. 「中学を卒業して、すぐモデルとして働きながら、飯倉の「キャンティ」に出入りし、人気のGSグループ、ザ・スパイダースに詞を提供して、熱狂的人気を博したザ・タイガースのメンバーと交際するというのだから、その時点で得難い経験をしている。 さらに、そこからミス・ユニバース日本代表となり、一転して世間の大バッシングに晒され、銀座「姫」のナンバーワンホステスとなり、ジャニーズ事務所女性タレント第1号となるのだから、常人ではありえない前半生と言っていい。 加えて、バンドマンとの同棲、妊娠、事務所を解雇、出産、(息子の)早逝、破局・・・・・・。 (これらは中学を出てからたった5年間の出来事であるが)一生かかっても、ここまでの経験をする人はいないのではないか」 (ノンフィクション作家・細田昌志)

  13. この他、写真家の下村一喜も矢住代の生涯に興味を持ち、「刹那を生きたデカダンなミューズ」と評して研究している。


出演作品

テレビドラマ

  • プレイガール (1969年8月4日、テレビ東京)
      第18話「新宿喜劇 女のムシが騒ぐとき」にて、ハイミナールでラリっているフーテン娘役。
         

  • セブンティーン -17才- (1969年8月5日、日本テレビ) 第2話「ちょっぴりやけちゃうな」。高橋元太郎と共演。

映画

  • やくざ刑罰史 私刑リンチ! (英題:Yakuza's Law → Yakuza Law、1969年6月27日、東映、監督:石井輝男)
      第3部「組の組織を破壊、秘密を漏洩せる者は理由の如何にかかわらずこれを抹殺する」にて百合役。
      パンフレットの制作・販売は無し。
       

レコードジャケット

  • MELODY IN JAPAN 「懐かしい日本のメロディ13 みちのくの民謡」
      (赤盤のLPレコード。ブックレット仕様。歌・演奏:藤本e丈社中ふじもとひでおしゃちゅう。1968年。東芝音楽工業/現代文化協会)
      飯野は村娘役でモデル掲載。 この「懐かしい日本のメロディ」シリーズは全17巻で、Vol.4のジャケットでは由美かおるがモデルとして採用されている。

書籍

  • 愛の医学 〜 SEX DESIGN (編著:青木信光、1969年、ミクロ社)
      飯野がモデルとして掲載された、箱入りのハードカバー成人用書籍。 3Dメガネと、青いプラスチック製の平型男性人形付き。 帯には、“「ミスユニバース」モデル問題でいまや全週刊誌話題の焦点!”と銘打たれた。 なお、ヌードモデルは飯野ではなく別の女性。
        

掲載雑誌

  • 週刊文春 (1966年4月25日号、文藝春秋) 「飯野やすよ」名義で表紙モデル
  • 毎日グラフ (1968年5月26日号、毎日新聞社。白黒ページにて水着掲載)
  • 女性自身 (1968年6月3日号、光文社) 「目的別 私のやせた秘訣公開」
  • 女性セブン (1968年6月5日号、小学館)
  • 週刊文春 (1968年7月15日号 「天下の美女」、文藝春秋)
  • 月刊平凡 (1968年7月号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕) ザ・スパイダースと
  • 週刊実話 (1968年8月26日号、日本ジャーナル出版、表紙:三条魔子)
  • 女性自身 (1968年9月2日号、光文社)
      「東西ハレンチカップル」のコーナーにて、恋人・杉浦洋一(松濤中学校の同級生。当時大学生)と共に掲載。
  • 主婦と生活 (1968年11月号、主婦と生活社)
      「なぜ私たちは争わなければならないのか? ミスに選ばれたこその母娘のけんか」
  • 平凡パンチ (1969年4月7日号、No.252、平凡出版 〔後のマガジンハウス〕)
      モノクロ5ページのインタビュー記事 「飯野矢住代と8人の男 18歳のセックス・ヒストリー」
  • 女性セブン (1969年5月14日号、小学館)
      「衝撃のドキュメント 性体験を赤裸々に告白したこの独身女性の生き方」
  • 女性自身 (1969年5月19日号、光文社)
      「泣いて叫びたい! ミスユニバース日本代表としての汚辱にみちた一年間」
  • 週刊新潮 (1969年7月5日号、新潮社)
      「ミス・ユニバースの“使い道” 〜飯野矢住代の映画出演〜」
  • プレイボーイCUSTOM (1969年11月15日号、集英社)
      当時同棲していた恋人・吉長信喜(ジョニー・レイズ)との共演掲載。 グアムロケ。 セミヌードも披露。矢住代は妊娠中であったが、お腹の大きさはまだ目立っていない時期のロケだった。 撮影:ムトー清次。
  • 女性セブン (1969年11月19日号、小学館)
      「飯野矢住代が妊娠4か月! 彼は混血児・ジョニー(OSのバンドマン) ゼッタイ、赤ちゃんを生みます」。 ジョニー・レイズと共にヌードを披露。
  • 週刊平凡 (1970年1月15日 新年特大号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「人間ドラマ 19歳(元ミス・ユニバース)飯野矢住代が男児出産するまで どうしてあの子は、24時間も、この世に生きずに・・・ 飯野矢住代 男児早産・・・死亡」
  • 週刊平凡 (1970年5月21日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      ハイセンス・コーナー「わたしの新しい恋」にてフルヌードモデル。 共演した男性ヌードモデルは音楽家の宮下文夫 (後の宮下富実夫)。
  • 女性セブン (1970年8月26日号、小学館) お化けメイクでモノクロ掲載
  • 主婦と生活 (1970年9月号、主婦と生活社)
  • 週刊女性 (1970年10月3日号、主婦と生活社)
      シリーズ 別れてよかった 「若すぎたゆえの破局 やっぱり10代で結婚すべきでなかったのね! 愛情より同情から結婚したという稚い夫と妻。後悔はしないというが・・・」
  • 主婦と生活 (1970年11月号、主婦と生活社)
      「虚栄の座 〜 そこに女の幸せはなかった・・・ / 全告白 飯野矢住代(21)の流転の三年間」
  • 週刊新潮 (1971年2月13日号、新潮社) 「<特集> 女が生きた、十五年の泣き笑い」
  • 週刊ポスト (1971年6月11日号、小学館)
      衝撃の告白 第67回 「“16歳で日活スターに犯されたのが性のめざめ 獣のように犯された初体験の悪夢”、“加橋かつみと長身歌手との歓喜の記憶”」
  • 平凡パンチ (1971年8月10日号・臨時増刊 STAR NUDE特集号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      フルヌード掲載 (ただしアンダーヘアのみ両手で隠した状態)。 撮影:大竹省二。


提供楽曲

  • ザ・スパイダース 「なればいい」 (英題:Up-Side-Down。1966年7月1日)
        
      ザ・スパイダースの6枚目のシングル『サマー・ガール』のカップリングに収録されたサイケロック。
      作詞:オリベ ゆり(矢住代の別名義)、作曲:かまやつひろし。
      2019年4月13日放送のラジオ番組『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)に、ムード歌謡漫談家のタブレット純がゲスト出演した際、「タブレット純がセレクトするおすすめのジャニーズ歌謡」として、安達明のデビュー曲『潮風を待つ少女』と、この『なればいい』を紹介し、非常にマニアックな選曲ぶりを見せた。 また、1995年12月16日に発売された企画物のオムニバスCDアルバム『CUTIE COLLECTION』の中で、「Petty Booka」というマイナーな女性デュオも『なればいい』をカバーしている。

  • ザ・バーズ 「ごめんなさいね」 (1968年1月)
        
      埼玉県浦和出身の双子姉妹ユニット「ザ・バーズ」のデビューシングル。
      作詞:吉田央(後の吉田旺) & オリベゆり(共作)、作曲:中川加代子。
      ただしレコード盤や歌詞カード、JASRACの登録では、オリベゆりの名前は伏せられている。 しかもレコード盤のラベルや歌詞カードでは、画像の様に作詞者と作曲者の名前が逆の状態で誤植されてしまっている。


関連エピソード

  • 1969年10月18日公開の大映映画『女体じょたい』(監督:増村保造、脚本:池田一朗〔後の隆慶一郎〕・増村保造)にて、浅丘ルリ子扮する奔放で魔性のヒロイン・浜ミチの性格、強姦された経験、「私は女よ! 愛する以外に何ができるの!」といったセリフ、物語の結末などが、1971年12月28日に亡くなった矢住代の生涯にそっくりだと言われている。 なお、浅丘ルリ子は1966年4月27日公開の日活映画『青春大統領』で初代ジャニーズと共演しているが、その当時、矢住代は初代ジャニーズの付き人をしていた。

     

  • 演歌歌手の三善英史(本名:田村照彦、1954年9月2日生まれ)も、渋谷区円山町の出身者 (ただし三善の一家は、三善が4歳の時に静岡県伊東市の温泉街へと転居した)。
    矢住代の母親と同じく、三善の母親(2008年12月18日に肺炎で逝去。87歳没)も円山町の芸者だった。 更に三善も矢住代と同じく私生児として生まれたため、戸籍上、父親は居ない。 そして、矢住代の母・辰子の源氏名は「一二三ひふみ」だが、三善の母親の本名は「二三ふみ」だった。
    なお、三善は自身の生い立ちを歌った『円山・花町・母の町』というヒット曲も1973年にリリースしている。

  • 歌謡ポップデュオ「じゅん&ネネ」の千秋じゅん(1949年11月17日生まれ、三姉妹の真ん中)も、飯野と同時期に円山町で育った人物。 年齢(学年)まで同じであり、家も非常に近所だった。(飯野は円山町89、千秋は円山町81 藤荘)

  • 1997年3月に発生した「東電OL殺人事件」の現場(円山町16-8 喜寿荘)が、かつて飯野母娘が暮らしていた場所(円山町5-17。1970年1月1日に住居表示が実施される前は、円山町89)の直近である。 ミスユニバース日本代表に輝いた矢住代に対し、事件の被害者女性(1957年6月7日生まれ)も、慶応大学卒、東京電力初の女性総合職入社、および初の女性管理職という華々しい経歴を持っていたが、矢住代と同じく不慮の死を遂げた。 3月9日に生まれた矢住代に対し、被害者女性の死亡日時も3月9日未明。 また、両者の身長が169cmという点、名前が「YASU」という点まで同じであった。(しかも被害者女性の下の名前は、漢字も含めてメリー喜多川とも全く同じ)

  • 細木数子(1938年4月4日 - 2021年11月8日。83歳没)も円山町で私生児として生まれ育った人物。 細木は、円山町11番地で生まれた。(細木が生まれ育った円山町の「渋谷百軒店」の地域は、1970年1月1日に住居表示が実施され、町名が「道玄坂2丁目」に変更された)
    1967年に商店会主催の小さなミスコンテスト「ミス渋谷 (別名:ミス東京)」で優勝した矢住代に対し、細木も1954年(16歳時)に同コンテストで初代「ミス渋谷」に選ばれ、新聞に掲載されている。細木と仲の良かった女給が、細木に黙って勝手に他薦で応募したことがきっかけだった。 ちなみに細木の時の選考方法は、候補者の女性たちが写ったポスターを地元のタバコ店に貼り出し、タバコを購入した客がその中から好みの女性を選んで、タバコに付けられた投票券を使って投票するというものだった。
    なお、同コンテストの歴代優勝者には、山田優 & 山田親太朗の母親・山田美加子(1977年度、当時18歳)もいる。 山田美加子は、22歳の時に初代「ミス沖縄」(1981年度)も獲得。その後、「ミス沖縄OG会」の会長も務めている。

  • 矢住代が暮らしていた当時の円山町の風景が、以下の映像作品に収められている。

    • 映画 『おさな妻』 (1970年11月3日、ダイニチ映配)
        神泉駅前の踏切にて、関根恵子(後の高橋惠子)が佇んでいる。

    • テレビドラマ 『さすらい』 (1971年11月13日、NHK)
        神泉駅前の踏切から始まるシーンにて、当時13〜14歳の栗田ひろみが円山町を歩いている。


  • 矢住代と同じ年齢(21歳)で、同じく年の瀬にこの世を去った小説家・久坂葉子と重ね合わせて語られる場合がある。 そして3月9日に生まれた矢住代に対し、「久坂葉子研究会」の代表で作家の柏木薫の死亡日も3月9日。

  • 矢住代と同い年(同学年。「団塊の世代」の最後の学年)の作家、女優であり、’70年代のサイケデリック・クイーン、鈴木いづみが、矢住代と同じくホステスやヌードモデルを経験し、音楽家との間に一子をもうけ、やはり同じく短い生涯を終えている (36歳で首吊り自殺)。 ここまで共通点の多かった鈴木は、矢住代の存在もおそらく知っていたと思われ、矢住代の人生にも当てはまる一文を残している。

      「速度が問題なのだ。
       人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。
       細く長くか太く短くか、
       いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。
       どのくらいのはやさで生きるか?」
          『いつだってティータイム』(1978年8月、白夜書房)より

    この一節は、鈴木の伝記映画『エンドレス・ワルツ』でも使用された。


関連項目



参考文献

  • 中日新聞 (1968年5月6日版、P.14「東京の飯野さん ミス・ユニバース代表」)
  • 読売新聞 (1968年5月6日版、1971年12月29日版)
  • 週刊新潮 (1968年5月18日号、新潮社)
      「日本ミス・ユニバースに黒い影 家事手伝いという環境の中で」
  • 週刊平凡 (1968年5月23日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「ミス・ユニバースの意外な過去 ジャニーズの元付人がミス・ユニバース代表に」
  • サンデー毎日 (1968年5月26日号、毎日新聞出版)
  • 女性自身 (1968年5月27日号、光文社)
      「ついに本人が認めたミス・ユニバースの非行前歴、サギ前歴 母親にアイソをつかされた娘 借金の名手 もと銀座ホステスだったことまで明るみに出て・・・」
  • 週刊大衆 (1968年5月30日号、双葉社) 「頭上にきらめく栄誉」
  • 女性セブン (1968年6月5日号、小学館)
  • 週刊新潮 (1968年6月15日号、新潮社) 「非行少女を「日本代表」から降ろせない内幕」
  • 女性自身 (1968年8月26日号、光文社) 「TVホステスに選ばれたこの女の値段」
  • 週刊実話 (1968年8月26日号、日本ジャーナル出版、表紙:三条魔子)
  • 女性自身 (1968年9月2日号、光文社)
      「東西ハレンチカップル」のコーナーにて、恋人・杉浦洋一(松濤中学校の同級生。当時大学生)と共に掲載。
  • 主婦と生活 (1968年11月号、主婦と生活社)
      「なぜ私たちは争わなければならないのか? ミスに選ばれたこその母娘のけんか」
  • 週刊文春 (1968年12月23日号、文藝春秋)
      ワイド特集 「有名になりすぎた女たち」 悪名と契約の終りを待つミス・飯野矢住代
  • 週刊平凡 (1969年3月20日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「緊急速報 ザ・タイガース 奇行癖の加橋かつみをクビ!」
  • 女性自身 (1969年3月24日号、光文社)
  • 平凡パンチ (1969年4月7日号、No.252、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      モノクロ5ページのインタビュー記事 「飯野矢住代と8人の男 18歳のセックス・ヒストリー」
  • 女性セブン (1969年5月14日号、小学館)
      「衝撃のドキュメント 性体験を赤裸々に告白したこの独身女性の生き方」
  • 女性自身 (1969年5月19日号、光文社)
      「泣いて叫びたい! ミスユニバース日本代表としての汚辱にみちた一年間」
  • ヤングレディ (1969年6月2日号、講談社)
      「また選考委員を悩ませる! 大須賀喜久代さんの前歴と飯野矢住代さんのその後 〜 ホステスになった飯野矢住代さんにまた悪い噂が・・・。」
  • 週刊新潮 (1969年7月5日号、新潮社)
      「ミス・ユニバースの“使い道” 〜飯野矢住代の映画出演〜」
  • 話のタネ本 (1969年8月5日、日本文芸社)
      「テレビのゲテモノ ああ堂々の活躍ぶり ワケのわからぬ魅力で茶の間をにぎわす五人のタレントたち」
  • 女性自身 (1969年11月8日号、光文社)
      「非行少女 → ミス・ユニバース → ホステス・・・前歴女性、飯野矢住代が母になる」。
      当資料では矢住代の母・辰子の名前が「辰代」と誤植されている。
  • 女性セブン (1969年11月19日号、小学館)
      「飯野矢住代が妊娠4か月! 彼は混血児・ジョニー(OSのバンドマン) ゼッタイ、赤ちゃんを生みます」。 ジョニー・レイズと共にヌードを披露。
  • 週刊ポスト (1969年12月26日号、小学館) 「ミス日本 飯野矢住代が流れついた先」
  • 週刊平凡 (1970年1月15日 新年特大号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「人間ドラマ 19歳(元ミス・ユニバース)飯野矢住代が男児出産するまで どうしてあの子は、24時間も、この世に生きずに・・・ 飯野矢住代 男児早産・・・死亡」
  • 週刊ティーンルック (1970年2月10日号、主婦と生活社)
      「加橋かつみ タイガース脱退から1年! 黒い噂の中で・・・ ぼくは絶対にヘアーを続ける!」
  • 週刊平凡 (1970年5月7日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「やっぱり古巣『姫』(銀座高級クラブ)に戻った飯野矢住代 / 愛児の死後、夫・ジョニーとの間に変化が・・・」
  • 主婦と生活 (1970年9月号、主婦と生活社)
  • 週刊女性 (1970年10月3日号、主婦と生活社)
      シリーズ 別れてよかった 「若すぎたゆえの破局 やっぱり10代で結婚すべきでなかったのね! 愛情より同情から結婚したという稚い夫と妻。後悔はしないというが・・・」
  • 主婦と生活 (1970年11月号、主婦と生活社)
      「虚栄の座 〜 そこに女の幸せはなかった・・・ / 全告白 飯野矢住代(21)の流転の三年間」
  • 週刊新潮 (1971年2月13日号、新潮社) 「<特集> 女が生きた、十五年の泣き笑い」
  • 週刊ポスト (1971年6月11日号、小学館)
      衝撃の告白 第67回 「“16歳で日活スターに犯されたのが性のめざめ 獣のように犯された初体験の悪夢”、“加橋かつみと長身歌手との歓喜の記憶”」
  • 毎日新聞・朝日新聞 (1971年12月29日版)
  • アサヒ芸能 (1972年1月20日号、徳間書店)
      「事故死したミス・ユニバースと五人の男」
  • 週刊平凡 (1972年1月20日号、平凡出版〔後のマガジンハウス〕)
      「ああ波乱の人生! 飯野矢住代 怪死事件の意外な真相
      “虚名”と“ロマンス”を着飾って生きた、はかない21年の生涯
      悲劇の人間ドラマ 飯野矢住代が死の前夜、池田秀一と過ごした6時間」
  • 週刊明星 (1972年1月23日号、集英社) 「哀れ、飯野矢住代が悲惨な事故死!」
  • 週刊実話 (1972年1月24日号、日本ジャーナル出版)
  • ヤングレディ (1972年1月24日号、講談社)
      「証言構成 飯野矢住代の栄光と悲惨 〜 タレント・池田秀一の居間で事故死するまでの波乱の二十一年」
  • 微笑 (1972年1月29日号、祥伝社)
      「三角関係か? 冷たい火花 飯野矢住代の遺影を抱いた2人の男! 言葉をかわさない2人」
  • 女性自身 (1972年2月5日号、光文社)
      「飯野矢住代が死を覚悟した“詩集”を残していた! “私は世の中に必要のない人間です”にはじまる詩が語るもの」
  • 微笑 (1972年2月12日号、祥伝社)
      「憎悪の対決 飯野矢住代遺族側と池田秀一の争い 「婚姻届に印を押したくせに!」、「俺こそ被害者!」、矢住代が残した婚姻届をめぐって対決対談」
  • 青木弘 『ザ・タイガース 日本の青春』 (1972年8月、日芸出版)
  • 週刊セブンティーン (1973年3月27日号、集英社)
      「三善英史 母さん早く元気になって」
  • 井上章一 『美人コンテスト百年史 〜 芸妓の時代から美少女まで』 (1992年3月、新潮社)
  • 山口洋子 『ザ・ラスト・ワルツ 〜 「姫」という酒場』
      (1996年12月、双葉社。 2000年11月に文藝春秋・文春文庫より文庫化。 表紙の集合写真の中央に写っている大柄な女性が矢住代)
  • 週刊文春 (2006年6月1日号 - 22日号、文藝春秋)
      「ここまで語るか細木数子」 (全4回)
  • 週刊新潮 (2008年3月20日号、新潮社)
      「大女優も殺人犯もいる『ミスコン100年』美女たちの栄光と転落」
  • 磯前順一 『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』 (2013年11月、集英社新書)
  • 月刊サイゾー (2019年3月号、サイゾー)
      「トランプや中国政府の圧力も!? ミス・ユニバースの裏側」
  • 細田昌志 『沢村忠に真空を飛ばせた男 〜昭和のプロモーター・野口修 評伝〜』
      (2020年10月、新潮社) クラブ「姫」の同僚・大門だいもん節江のインタビューを掲載
  • 細田昌志 「飯野矢住代誕生秘話」 (2021年9月1日 - 10月30日、全27回、日刊ゲンダイ/日刊ゲンダイDIGITAL)


注釈

  1. ^ 1937年5月10日 - 2014年9月6日。 実業家 兼 作詞家。 元・東映ニューフェイス女優。 後にフォーリーブスJJSの楽曲にも作詞提供したり、直木賞作家にまでなる人物。 ハイヒールモモコの叔母。 77歳没。

  2. ^ 1956年8月8日に銀座7丁目の木造ビルの2階のわずか5坪の店舗からスタート。 そして銀座5丁目、8丁目、6丁目と転居を繰り返しながら、やがて銀座を代表する最高級クラブに成長。 常連客には、力道山、三島由紀夫、野坂昭如、吉行淳之介、近藤啓太郎、勝新太郎、石原裕次郎、梅宮辰夫、西郷輝彦、平尾昌晃、長嶋茂雄、金田正一、杉浦忠、野村克也、豊田泰光、張本勲、権藤博、衣笠祥雄、佐伯和司、野口修、沢村忠、木崎義二ほか、無数の著名人が居た。
    1989年に閉店。 登記上での会社形式は残していたが、1993年夏に経営権を売却した (『週刊実話』1993年8月12日号)。 その後、別の経営者によって中央区銀座6-5-11 丸源15ビルの2Fで営業が再開されるも、2013年8月上旬に再び閉店した。







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